100歳充実、三味線人生 茨城・笠間出身の玉川祐子さん 浪曲、力強くバチさばき

80年以上にわたり、浪曲の三味線曲師を務める玉川祐子さん=東京都内

茨城県笠間市で生まれ育ち、100歳を迎えた浪曲の三味線奏者「曲師」が、都内の演芸場を拠点に活躍を続けている。玉川祐子(本名・中村りよ)さんは17歳で弟子入りし、80年以上も三味線を弾き続ける。戦争を乗り越え、私生活では子の早世、離婚などつらい出来事もあったが、「好きな浪曲を仕事にできて幸せ」。古里で9月に開かれる演芸会の出演に意欲を見せている。

■上京して修業

玉川さんは1922(大正11)年、当時の茨城県西茨城郡北山内村(現笠間市片庭)に生まれた。6人きょうだいの2番目で、農業を営んでいた実家は貧しく、小学校卒業後は笠間稲荷神社近くの呉服店に子守の奉公に出された。この時、隣のレコード店から流れる二代目広沢虎造や寿々木米若らの浪曲の節に魅了され、浪曲師を志す。

猛反対の家族を説得し、浪曲師になるため17歳で上京し、弟子入り。ところが半年後、師匠の母親から「(玉川さんの)固い声は浪曲の語りに向かない」と諭され、三味線の伴奏をつける曲師に転じた。

修業を終える22歳の頃、16歳年上の浪曲師と結婚。戦時一色の世の中でも仕事は途絶えなかったが、巡業から戻った45年3月10日、東京は大空襲に襲われ、玉川さんは三味線だけを手に逃げたという。

■木馬亭で活躍

戦後も曲師を続け、私生活では4人の子宝に恵まれたが、次男と三男は病で早世。三男が病気になった時に浪曲から一時離れたが、70年に木馬亭(東京都台東区)に浪曲の定席が設けられたのを機に曲師に復帰した。しかし、玉川さんの活躍をねたましく思ったのか、夫から暴力を振るわれるようになったという。

紆余(うよ)曲折を経て75年に離婚が成立すると、当時コンビを組んでいた年下の浪曲師、玉川桃太郎さんと再婚。2015年に桃太郎さんが亡くなるまでの40年間、公私ともに支え合った。「桃太郎さんは穏やかでいい人。生活は前の夫よりも長くなりました」と振り返った。

■故郷に錦飾る

玉川さんは現在、都内の団地で1人暮らし。若手女性浪曲師の港家小そめさんとのコンビで木馬亭の舞台に上がる。語りに合わせて、力強く三味線のバチをさばきながら、「いやー」「いよーっ」と気合のこもったかけ声で語りを盛り上げる。

「今までつらいこともたくさんあったけど、今は孫のような小そめちゃんと一緒にできて楽しい。この子は宝物」。舞台を離れた玉川さんは「優しいおばあちゃん」に戻る。

元気の秘訣(ひけつ)は「人を憎んだりせず、感謝の気持ちを持ち続けること」。そんな玉川さんを、小そめさんは「舞台での気迫と素晴らしいかけ声、三味線に感情を込める表現力で、いつも助けてもらっている」とリスペクトする。

玉川さんは9月30日、有志の計らいで、かさま歴史交流館(笠間市笠間)で開かれる演芸会に出演予定。古里での演奏は約80年ぶりで、披露する演目は水戸黄門漫遊記。「笠間一の旅館だった場所で弾けて、最高の気分。頑張ります」と意気込む。

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