大河『家康』重臣・石川数正が裏切った事情 立場が微妙だった“融和派” 識者が解説

NHK大河ドラマ「どうする家康」第33話は「裏切り者」。小牧・長久手の戦いの終結と、家康の重臣・石川数正(松重豊)が羽柴秀吉(ムロツヨシ)のもとに出奔する様が描かれました。天正12年(1584)3月に起こった小牧・長久手の戦い。同年10月、羽柴秀吉は、徳川家康(松本潤)と共闘する織田信雄(信長次男)の居城・長島城(三重県桑名市)を攻撃する構えを見せます。この圧迫に抗しきれず、信雄は秀吉と和睦(11月12日)。

信雄は実子を人質に出します。家康は信雄に加勢する形で、秀吉との戦を始めましたので、信雄が降伏した今、頑強に抵抗する意味もないでしょう。信雄の取りなしもあり、家康も秀吉と和睦。次男の於義伊(後の結城秀康)を人質として、秀吉のもとに送ります(12月12日)。石川数正や本多重次の子息も、人質として送られました。

そして翌年の天正13年(1585)11月、徳川重臣であり、岡崎城代であった石川数正が、突如、大坂の秀吉のもとに出奔するのです。長年、家康に仕えてきた数正はなぜ主君を「裏切った」のか。それは、徳川家中が、秀吉と融和するか、対決するかで割れていたからです(強硬派が圧倒的多数)。

数正は度々、秀吉への使者として派遣されていましたから、秀吉政権の力をよく知っていました。よって、秀吉と講和すべきという融和派でした。ところが、前述のように、家中は対秀吉強硬論が支配していた。そうした現状に家中に居ずらくなり、出奔したと考えられます。おそらく、秀吉からも、数正に対し、事前に勧誘はあったでしょう。

さて、今回、家康を苦しめることになる真田昌幸(佐藤浩市)がいよいよ登場してきました。信濃の砥石城(長野県上田市)を本拠とした昌幸は、武田家に仕えていましたが、同家滅亡後は、織田信長に属します。信長死去後、小田原の北条氏が大軍で信濃に侵攻してきたため、今度は北条氏に仕えることになります。その後、昌幸は、上野国の沼田・岩櫃という2つの城を回復。徳川と北条は甲斐国で激突しますが、程なく、和睦することになります(その間に、昌幸は徳川家康方に属していました)。

和睦によって、上野国は北条に引き渡されることになります。上野国の沼田領は北条に引渡せという勧告が家康からあるも、昌幸はこれに応じず。昌幸は今度は秀吉を頼ることになるのです。北条氏は沼田を獲るため、度々、これを攻めますが、真田は退けるのでした。主君(味方)を次々に変えつつ生き残っていく昌幸の強かさと気骨がここから分かるでしょう。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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