「ちっちゃい女の子が置いた球」をガーンと打った・松原誠さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(26)

1962年に大洋(現DeNA)へ入団した当時の松原誠さん

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第26回は大洋(現DeNA)の4番打者を長く務めた松原誠さん。V9時代の巨人に立ち向かうも、王貞治さんと長嶋茂雄さんの分厚い壁の前に打撃タイトルとは無縁でした。彼我の差がどこにあるのか、ご自分では納得されている様子でした。(共同通信=中西利夫)

 ▽体は大きかったが、運動会は嫌いだった

 1944年に東京で生まれました。1月の早生まれです。きょうだい6人の末っ子。戦争中は逃げまくって、埼玉へ疎開しました。父親が亡くなった後、おふくろは一人で駅前のバラックで飲み屋を始め、闇米を売りに行くとか、むちゃくちゃ苦労したようです。ただ、僕は小さい頃から食事で不自由な思いをしたことは一度もありません。中学の時の弁当は、他の生徒が塩だらけのシャケや安いつくだ煮の昆布でも、僕は卵や豚肉を食べていました。母親が自分は飲まず食わずで育ててくれました。一番貧しいのに一番いいもの食っていると、うらやましがられたほどです。おふくろを今の家に引き取り、一緒に住み、ここで葬儀も挙げました。シーズン席を持っていたので、おふくろは毎日球場に来ていました。62年5月、2軍から上がって板東英二さんからセンター前へ初安打を打ち、うれしくておふくろに手紙を書きました。その手紙を、おふくろはずっと持っていました。

松原誠さん=1963年1月

 僕は体はでっかいんですけど、とにかく体に力がなかったです。腕力は弱いし、懸垂は2回ぐらいしかできません。僕の体力を見て、埼玉・飯能高時代に先輩とかは、あれはプロじゃできないだろうと、みんな思ったらしいです。足はチームで一番遅い。運動会でクラス別対抗の選手に選ばれないんです。だから運動会は嫌いでした。プロへ入った時に体重が70キロちょっとしかなく、もやしみたいでした。ただ、腕力はないのに肩だけはべらぼうに強いのと変化球が打てる特長がありました。中学の時に100メートルぐらい放っていたので、捕手をやらされたと思います。顔の辺りに球がいくから、二塁送球では投手がしゃがみました。プロでは三原脩監督に「捕手はいっぱいいるから打撃を生かして一塁へ行け」と2年目の途中で言われました。

1970年頃の松原誠さん。巨人の王、長嶋の全盛期と重なり、打撃タイトルに届かなかった

 ▽ちょっとの差がちょっとではないプロ野球

 僕は22歳でレギュラーになり、30歳まで毎日200回、バットを振りました。試合が終わって11時半ぐらいからとか。一振り一振り、渾身の力を込めてやると、早くても1時間半ぐらい、2時間かかることもありました。打撃で何が一番いい練習か一流の人に聞いてみてください。スイング、素振り。全員が言うと思います。だからバットはよく振りました。調子の悪い時は振っているうちに夜が明けたなんていうのは何度もありました。スランプは面白いんですよ。真っ暗闇じゃないですか。どこが悪いのか分からないんですよ。4打数4三振なんて、バットにかすりもしないんです。4番でですよ。スランプは、一年のある時に必ず一回やそこらあります。本当にバッティングというのは難しいですね。

松原誠さんは通算330本塁打、1172打点などDeNAの球団記録をいくつも残している=1972年5月撮影

 張本勲さんは「便所に入っても足の踏み出し方を練習しろ」と若い選手に言っていました。踏み出す足の練習は非常に重要な部分。張本さんは自分でやっていたということです。王貞治さんも人に見えないところでどれだけやっていたか。僕が現役最後の81年に巨人に移籍し、王さんが助監督になった時です。キャンプのある夜、王さんは「俺たちの選手寿命は一般の人が定年まで勤める年数の3分の1、十何年しかない。だから(一日を)一般の人の3倍生きようじゃないか」と言いました。ということは王さんは人の3倍やったということです。
 僕は打点重視で、77年に110打点の年がありました。本塁打も自己最多の34本を打ったんです。打点王は欲しいタイトルでしたが、王さんが50本塁打で124打点。これが一番残念でした。王さんとは74年に首位打者で競ったこともあります。プロ野球の記録は、ちょっとの差がちょっとじゃないんですよ。その時、僕は200本振っていたけれど、王さんははっきり3倍という目標があった。この差なんです。思いの丈なんですね。人生というか、1位と2位の人の差は。

1980年4月に通算2千安打を達成し、観衆に応える松原誠さん=横浜

 ▽打率3割が打てない選手に共通する理由

 3年目、甲子園で村山実さんから初ホームランを打ちました。それから大の得意にしました。村山さんは(握りを)深くしないで浅くしたスプリットフィンガーで打者をばったばったと切っていました。深く握ると横揺れするなど不規則ですが、あの人のは揺れない。ボール1個ぐらい落ちるだけ。フォークボールは手首を固定して腕を振ります。スプリットは手首を使うから少し速い、その分、落ちが遅く、少ない。村山さんも速い。その20何勝していた村山さんからサヨナラ本塁打を打つなど、僕はかもにしていたわけです。
 打者には2種類あります。縦の変化に強いか、横の変化か。落合博満は縦で、カーブやフォークに結構強いです。両方打てるのはいません。かつて見たことがないです。必ずどっちか。僕はスライダーに弱くて、どうするかというとファウルにしておけばいいんですよ。内角、外角、どっちか得意な方というのはあります。僕は元々アウトコースは得意。331本塁打のうち、3割以上はライト方向へのホームランです。インコースは青田昇さんに打ち方を教えてもらい、打てないのを少しずつ克服しました。

1980年12月、巨人への入団発表後、正力亨オーナー(左)と藤田元司監督(右)と握手する松原誠さん=東京・大手町の球団事務所

 打率3割を打てず、2割8分ぐらいで終わっている選手には共通点があって、インコースの速球が打てない人なんです。「バッティングは勇気」という言葉があるぐらいで、僕は自分に向かってくるボールは怖くない。打者が一番嫌なことは球威に押されて詰まること。インコースが嫌な打者は前(投手寄り)に行きたがります。すると打つポイントまで待っていられないから変化球にやられてしまう。バッティングって2ストライク以降が勝負で、速い球も遅い球も全部打たないといけなくなります。ここで打率の差が出てくるのです。速い球を打てない選手は頭にそれがあるから体が開いたりするので、外の変化球にやられてしまいます。インコースの速い球をそこそこに打てないと3割は打てません。

 ▽涙が出るぐらい球を凝視すると

 76年に4打席連続ホームランをやったことがありました。球が止まって見えるというんですけど、本当に止まってるんですよ。長年やってきて、その時だけ。阪神戦。吉田義男監督が「誰か打たれねえのいないのか」って。ボールが止まってしまってるので、誰が投げても一緒なんです。ちっちゃい女の子が「はい」ってここに置いた感じ。投球を見ているだけで、ガーンとやるとホームランになるんですよ。見えるしタイミングは合うし。どこからそういう感覚が出るかというと、僕はティーバッティングで球を涙が出るほどぎゅっと見る。縫い目まで見る。見ると言うことを、そのぐらい重要視していました。見えなきゃ打ちようがない。動体視力というのもあるけれど、ぼやっと見ていて打てるはずがない。それを積み重ねると、ある時、そういう感覚が出てくるんじゃないですかね。米国に行った時にセ・リーグで一番速かった江夏豊より速い投手が教育リーグで出てくるわけですよ。それで帰ってくると江夏が1カ月ぐらい遅く見えました。だから訓練なんですよ。眼力というのはね。

横浜(現DeNA)のヘッド兼打撃コーチ時代の松原誠さん。引退後は広島や巨人のコーチも務めた=2004年2月撮影

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 松原 誠氏(まつばら・まこと)埼玉・飯能高から1962年に大洋(現DeNA)入団。捕手から一塁手に転向し、5年目から4番に定着。80年4月に名球会入り条件の通算2千安打に到達。巨人での1年を含め、20年間で通算2095安打、331本塁打、1180打点。オールスター戦出場は11度。引退後は大洋、巨人、広島でコーチを務めた。44年1月13日生まれの79歳。埼玉県出身。

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