方谷13歳の漢詩 新見で見つかる 三島中洲 師事きっかけの作か

方谷が13歳の時に作って書き記したとみられる漢詩。諸葛孔明をたたえている

 幕末の備中松山藩で財政改革に尽力した儒学者・山田方谷(1805~77年)が13歳の時に作って書き記したとみられる漢詩が30日までに、新見市内の民家で確認された。一番弟子で二松学舎大(東京)の創設者として知られる漢学者・三島中洲(ちゅうしゅう)(倉敷市出身、1830~1919年)が若い頃に読んで感銘を受け、方谷に師事するきっかけになったとされる漢詩の可能性が高く、研究者は「2人をつないだもので、歴史的に貴重な史料だ」とする。

 漢詩は三国志の名軍師・諸葛孔明をたたえる内容。和紙(縦23.5センチ、横18.0センチ)に丁寧な筆運びで墨書され、末尾には「十三」という数字も見て取れる。当時の庄屋の家系に連なる戸田俊治さん(89)=新見市=方に保管されていた。

 戸田さんによると、真贋(しんがん)が不明だったといい、2月に本紙で方谷を描いた小説「孤城春たり」の連載が始まったのを機に確認しようと決め、今月7日、研究者の町泉寿郎・同大文学部教授(日本漢学)に調査を依頼。町教授が筆跡などから方谷の自筆と判断した。

 三島は14歳で方谷の私塾・牛麓舎(ぎゅうろくしゃ、現高梁市)に入塾している。方谷の師・丸川松隠の娘婿宅(現倉敷市)で方谷が13歳で孔明を詠んだ漢詩を目にし、出来の見事さに尊敬の念を抱いてすぐに門をたたいた―とのエピソードが残っており、今回確認された漢詩がそうだとみられる。

 方谷に薫陶を受けた三島は1877(明治10)年に同大の前身となる漢学塾を設立して多くの人材を育て、皇太子時代の大正天皇の教育係も務めるなど活躍した。

 戸田さんは「この漢詩がなければ2人は出会わなかったかもしれず、今後も大事にしたい」。町教授は「三島が発奮し、方谷に学ぶことになるきっかけの存在が裏付けられた」と話している。

 漢詩は10月中旬に倉敷市美観地区で公開を検討している。

 ここポイント! 漢詩は「武侯圖」の題で、武侯と称された諸葛孔明の活躍について詠んだもの。はっきりとした意味は分かっていないが、孔明が敵国・魏を倒すために繰り返し行った「北伐」や豪族・孟獲らによる反乱を屈服させた「南蛮征伐」と呼ばれる戦いについて触れたと思われる「北征六出」「南伐七擒」といった字句がつづられ、軍師として水際立って立派であったと称賛している。文末に「十三童 山球詩」とあり、13歳の時に方谷(球は方谷の名)が作ったことが記されている。

漢詩を調べる町教授(右)と戸田さん=7日、倉敷市内

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