【関東大震災から100年】「震災遺構」

関東大震災から100年。今週は毎日、防災に関する特集をお伝えしています。4日目は「震災遺構」について取り上げます。

「震災遺構」とは、「被災後、被害の大きさや教訓などを後世に伝えるために、保存されている建物やモニュメントの総称」です。今年、震災から100年ということで注目されています。

例えば台東区では、区周辺にある震災遺構などをまとめたガイドマップを9月1日から公開する予定です。この中には、震災時、焼失を免れ、安否確認の張り紙が貼られるなどしていた「上野公園の西郷隆盛像」や、揺れで頭部が落下し、現在も顔の部分が安置されている「上野大仏」等が紹介されています。

一方で、こういった関東大震災の震災遺構は、再開発などで年々減少しているという現状もあります。代表的なものが、千代田区神田和泉町にあった「旧和泉町ポンプ所」です。震災当時、町民の決死の消火活動などで奇跡的にこの施設だけ残り、長い間、地域の住民に親しまれていましたが、本来の下水施設としての役割を終えたことや再開発などの煽りを受け、現在解体作業が進められています。

このように震災の様子を今に伝える上で「震災遺構」の存在は非常に重要である一方、同じ場所に長期間、残し続けることが難しいという面があります。今回、東京から遠く離れた愛知県の「ある施設」に、東京の遺構が数多く残されているということで取材しました。一体どのような遺構が残され、そしてなぜ愛知県にあるのでしょうか。

記者:「愛知県犬山市の「博物館 明治村」に来ています。こちらに保存・展示されている建築物の中には、関東大震災を耐え抜いた「震災遺構」が数多く存在するということです」

明治時代以降に建てられた建造物を移築・展示し、日本の歴史や文化を後世に伝えていくことを目的に作られた「博物館・明治村」。都心から約260キロ離れたこの施設にある64の建造物のうち、3分の1以上が東京の震災遺構です。主任学芸員の中野さんはその多さについてこう推測します。

中野さん:「高度経済成長期の時に取り壊さなきゃいけなくなった建物で、周りの人たちが絶対にこの建物は残したいって思いがあったものがここに来た」

100年前の面影を残す、明治村の様々な建造物。その中でも震災当時のことを色濃く伝えてくれる建物があります。旧帝国ホテル、通称「ライト館」の中央玄関。アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトによって設計された重厚なデザインの建物です。

中野さん:「関東大震災の日がこのホテルの開業記念パーティーの矢先(だった)。(スタッフが)電源のスイッチをオフにしたり、建物に水を掛けたりして、延焼を防ぐ努力をされていました」

建物が倒壊を免れた理由として、こういったスタッフの行動のほかホテルの敷地の地盤がゆるいと知ったライトが、建物の基礎に当時の最新技術を用いたこと、そして、内部の構造が火災に強い鉄筋コンクリート造だったことなどが要因だといいます。

中野さん:「(当時は被災した)周りの企業とか外国の大使館とか、仮の事務所として客室とかお部屋を提供なさったり、また海外からの救援物資が届けられた時にここに一旦集められて(各所に)配分されたというふうに伺っています」

東京の震災遺構は他にも。

明治村 中野さん:「こちらは東京都の隅田川にかかっていた「新大橋」(の一部)です」

隅田川新大橋は震災当時、多くの橋が焼け落ちる中、部品が全て鉄でできていたことや現場にいた警察官などが避難する人に燃えやすい家財道具を川に捨てさせたことなどから、崩落を免れたといいます。結果、避難路が確保され、1万人以上の命を救ったと言われていて、地元住民からは「人助け橋」と呼ばれ、長い間親しまれました。現在の「隅田川新大橋」近くにある石碑にも、その当時の出来事が詳細に刻まれています。

100年残されてきた東京の遺構を、次の世代に受け継いでいくその意味とは…

明治村 中野さん:「初代の明治村の館長は「建築は歴史の証言者」っていう言葉を言っているんですけども、いろんな歴史を直視してきたそういった背景を持っているものなので、地震があったということだけじゃなくて、その時人はどうしなきゃいけないのかっていうことも伝えれたらいいのかなっていうふうに思っています」

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