関東大震災を予見も発表せず…地震学権威、大森房吉が貫いた信念 非難された日本人初ノーベル賞候補

1906年8月5日付の米紙「サンフランシスコ・コール」。約3千人が死亡したサンフランシスコ地震を現地視察した大森房吉のコメントや写真を「世界随一の地震学者」の見出しで大きく伝えている

 1923(大正12)年に起きた関東大震災から9月1日で100年となり、当時の地震学の世界的権威で日本人初のノーベル賞候補にもなった福井県福井市出身の大森房吉(1868~1923年)に再び光が当たっている。大地震の危険性を予見しながらも、社会の動揺を懸念し「確実だと信念を得るまで発表しない」姿勢を貫いた姿は、現代にも通じる地震学者の葛藤がにじむ。

 関東大震災発生の20年近く前、東京帝国大(現東京大)地震学教室の教授だった大森と、2歳下で同じ教室の今村明恒助教授との間で、東京での大地震の可能性を巡り論争が起きた。

 今村が「いつ起きても不思議ではない。もし火災が起きれば死者10万~20万人に達するだろう」と警鐘を鳴らしたところ、新聞が扇情的に報道し騒動となった。一方、大森は「今すぐ起きるわけではない」と沈静化に努めた。その後、関東大震災が発生し、「予知できなかった」と非難された大森は責任を一身に背負い、23年11月8日に56歳で亡くなった。

 大森の生涯を詳細に調査したノンフィクション作家・上山明博さんの「地震学をつくった男・大森房吉 幻の地震予知と関東大震災の真実」(2018年、青土社刊)によると、大森は震災前の1920年、「東京将来の震災に就きて」と題した論文を掲載した。

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 直近6年間で東京が揺れた地震は計175回に達しており、東京大の地震計と水戸(茨城県)、銚子(千葉県)の観測データを使い、3カ所の初期微動継続時間から全ての地震の震源を推定。震源の密集域の一つに箱根などを含めた相模湾沿岸域があり、引き続き注視するよう示唆した。上山さんは「今村の地震予知よりも核心に迫っていた」とみる。

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 震災直前、シドニーに向かう船内で、大森が「次に起こるべき大地震はここですよ」と言い、東京湾付近を指さした話も残る。しかし「人心を動揺させる恐れがあるから、確実だと信念を得るまでは公表いたしません」と説明。シドニー滞在中に震災は起き「時期に誤算がありました」と語ったという。

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