関東大震災から100年 津波に襲われるも犠牲者ゼロの村…生かされた“教訓”とは(静岡県)

関東大震災から9月1日で100年。静岡県東部も津波に襲われ、多くの犠牲者が出ましたが、伊東市のある地区では死者は1人もでませんでした。そこには先祖代々伝わる教訓が生かされていました。

9月1日、静岡県熱海市の伊豆山地区で行われた慰霊行事。関東大震災で住民を救助しているとき、鳥居の下敷きとなり警察官が亡くなりました。

(殉職した警察官の孫)

「この階段でたくさんの人を背負っていいことをした。頑張ってくれてたことは家族で知っていた」

100年前のきょう。神奈川県西部を震源とした、関東大震災が発生。死者・行方不明者は10万5000人以上、多くは火災で亡くなりました。地震の規模はマグニチュード7.9。この大地震により、県東部には津波が押し寄せました。

県内では東部を中心に444人が犠牲となり、9000戸を超える住宅被害が発生しました。

これは当時の伊東町の映像。家が崩れ…船が打ち上げられている様子も。伊東町では361戸が流され、死者・行方不明者は84人にのぼりました。

しかし、伊東町に隣接していた「宇佐美村」の死者はいませんでした。 そこには先祖から伝わってきた“ある教訓”がありました。

こちらは伊東市文化財管理センター。現在、関東大震災を伝える展示コーナーが設けられています。その中に展示されていたのは…

(伊東市文化財管理センター 金子浩之 主任学芸員)

「100年前、宇佐美村という村があった。小学生が津波を経験し作文集を残した」

当時、宇佐美村の児童ら728人が大震災から1か月後に書いた作文集「大正大震災記」

「ツナミモキマシタカラ、オオイソギデタケヤブヘニゲマシタ」

「家が、がたがたゆれだしたので、びっくりしてとびだしました」

「浜の向こうから、津波だ津波だと泣いてくるので、夢中で上の山に逃げました」

作文集には地震が来た後、すぐに「竹やぶ」や「山」など高台に逃げていたことが「多く」記されているのです。

(伊東市文化財管理センター金子 浩之 主任学芸員)

「元禄地震があった。関東大震災の一つ前、300年以上前の地震。宇佐美でもかなりの数の犠牲者が出た。一家全滅の家々がたくさんある。元禄地震の教訓は、関東大震災のときにはとてもよく生きていた。竹やぶへ逃げるんだと徹底されていた」

当時の宇佐美村は平坦な田んぼが広がっていて、近くの高台といえば「竹やぶ」でした。“地震が来たら竹やぶへ逃げろ” と、先祖代々伝わってきたと考えられているのです。

宇佐美の子どもたちが残してくれた作文集。普段は伊東市立宇佐美小学校の校長室に防災関連の資料と共に大切に保管されています。

小学校5年生6年生は2023年7月“防災の授業”で「当時の作文集」についても学びました。

(小学校6年生)

「作文には周りの人が大声で『地震だ 津波だ』って叫んでいて、他人のことも気を使えるところがすごくいいなと思った」

(小学6年生)

「個人の力ではなくて協力して逃げていた、そういう力が大切だと思った」

関東大震災から100年。「作文集」は次の100年へと引き継がれていきます。

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