大河『家康』秀吉の妹・旭姫は「政略結婚」の犠牲者 家康とは実質2年の結婚生活、元夫は自害説も 識者語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第34話は「豊臣の花嫁」。徳川家康(松本潤)の重臣・石川数正の出奔に動揺する徳川家中と、家康を上洛させるため、秀吉(ムロツヨシ)が打ってきた次なる「秘策」が描かれていました。天正13年(1585)11月13日の石川数正の秀吉方への出奔は、徳川にとって大きな衝撃でした。家康が「竹千代」と呼ばれた頃から仕え、数々の戦で功績を挙げてきた数正。徳川の宿老とも言うべき存在であり、岡崎城代であった数正の離反により、家康は緊急対応を迫られました。

同月14日には、吉田城(豊橋市)から酒井忠次が岡崎に入っていますが、家康もまた16日には、浜松から岡崎城に入っていました。諸将と対応は協議した家康は、岡崎城やその他の城の普請(修理)、三河国衆の婦女子の遠江国避難、軍法の改正、新たな岡崎城代(本多重次)の任命(12月)といった措置を講じていくことになります。徳川の内情や軍事機密を知っている数正が、秀吉方にそのことを教え、それをもってして、秀吉軍が徳川領内に襲来してきた際のことを想定してのことでしょう。

実際、秀吉は、新たな人質を出してこない、家康を近いうちに成敗しようとしていました。翌年(1586年)1月に、家康を討つため出兵することを決めていたのです。もし、これが現実のものとなっていたら、家康方は敗れ、最悪の場合は滅亡、滅亡は回避されたとしても領土は著しく削減され、どこかの辺地に国替させられた可能性が高いと思われます。秀吉からの人質提出要求を拒んだことにより、家康は滅亡の危機に晒されていたのです。

しかし、災害が家康の危機を救います。天正13年(1585)11月29日、いわゆる「天正大地震」が発生。畿内や尾張・美濃国に大きな被害を与えます。秀吉の勢力地が地震により大きな被害を受けたということもあり、翌年の家康討伐は不可能となります。秀吉は強硬策から融和策に転じることになるのです。

その象徴的な出来事が、秀吉が妹の旭(朝日)姫(山田真歩)を家康に嫁がせたことです(1586年5月14日)。家康は築山殿亡き後は正室はいませんでした。旭姫は家康の新たな正室となったのです。旭姫は、秀吉の異父妹であり、佐治日向守という武士と結婚していました。ただ諸説あり、佐治ではなく、副田吉成という武将の妻だったとも言われます。旭姫は、竹阿弥と、秀吉の母・なかとの間に生まれたとされます。

しかし、旭姫を家康に嫁がせようとした兄・秀吉により、離縁させられたと言われています。一説によると、佐治日向守はそれを苦にして自害したとされます。旭姫もまた戦国の「政略結婚」の犠牲者というべきでしょうか。家康に嫁いだ時、旭は44歳、家康は45歳でした。

家康の正室となった旭ですが、天正18年(1590)1月に病死してしまいます。旭姫は、母の大政所が病だと聞くと、見舞いのため、駿府から大坂に行くこともありました。京都の聚楽第に住むことになった旭姫。実質2年の家康との結婚生活でした。旭姫は家康との結婚生活に喜びを見出していなかったのかもしれません。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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