『メルセデス・ベンツC11』圧勝で時代を締め括ったメルセデスターボCの集大成【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、グループCカーの『メルセデス・ベンツC11』です。

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 1990年はグループCにおいてひとつの時代が終わる年だった。それは1991年よりF1との共用も狙いだった3.5リッターNAエンジンを搭載する新規定グループCカーが世界選手権の主役になることが決まっていたため、ターボおよび大排気量NAマシンによる争いは、1990年が最後となるはずだったからだ(実際は1991年も旧規定Cカーは世界選手権やル・マン24時間レースにも参戦していた)。

 そんな旧規定時代を締めくくる1990年の世界スポーツプロトタイプカー(WSPC)を制したのが『メルセデス・ベンツC11』だった。

 メルセデス陣営は1989年、前作『ザウバーC9』でWSPCおよびル・マン24時間レースを制したものの、『C9』自体が投入より3シーズンを戦っており、急速に進化するライバルたちに対峙できないと判断し、1990年に『C11』を開発、投入した。

 『C9』と同じくレオ・レスの設計によって生まれた『C11』の最大の特徴は、モノコックがカーボンになったことだった。実はこのカーボンモノコック車は、1989年に登場させる予定もあったのだが、設計ミスなどがあり、デビューが1年ずれてしまったという経緯もあった。

 さらにモノコックに加えて、ボディデザインも一新された。スイスの軍用ムービングベルト付き風洞を使って空力開発が行われ、ノーズがスリムなシェイプになるなど各部が改良された結果、『C9』と比較してダウンフォースを20%もアップさせていた。

 また、カーボンブレーキを新たに採用したほか、エンジンのモディファイも実施。M119型という5.0リッターのV型8気筒ツインターボという基本はそのままに、制御系を最新のものへ変更し、燃費や出力がさらに向上していた。

 『C11』は鈴鹿サーキットで行われた1990年のWSPC開幕戦でデビューを果たす。この開幕戦では、2台中1台しか新車が間に合わず、1台が『C11』、1台が『C9』という体制で戦うはずだったが、予選で『C11』がクラッシュ。これによって2台とも『C9』で戦うことになってしまった。しかし陣営はそんなアクシデントも乗り越えて見事に1-2フィニッシュを達成し、幸先のいいシーズンスタートを切った。

 続くイタリアのモンツァが舞台となった第2戦では2台ともが『C11』となり、いよいよニューカーが実戦デビューを果たすと、開幕戦に続いて1-2フィニッシュを決めてみせた。

 その後、第3戦のシルバーストンラウンドこそトラブルなどでジャガーに優勝を奪われてしまったものの、第4戦以降は『C11』が全勝し、結局、『C9』での優勝を含めて全9戦中8勝という圧倒的な強さでメルセデスは、WSPC王座を防衛したのだった。

 これで『C11』はお役御免となるかに思われたが、1991年にも活躍の機会が巡ってきた。1991年のスポーツカー世界選手権(SWC)に参戦する2台のメルセデスのうち、シーズン途中まで1台は『C11』とされたためだった。しかもその『C11』が新規定車よりも安定した速さを見せ、勝利こそなかったものの上位入賞を繰り返して、シーズン序盤はポイントリーダーにつける場面もあった。

 加えて新規定車の信頼性が確保できていなかったこともあり、メルセデス陣営は1991年のル・マン24時間レースに旧規定車である『C11』で参戦した。

 しかし『C11』は、予選ではトップタイムをマーク(スターティンググリッドは上位10台が新規定車に割り当てられることになっていたため、11番手に)、決勝でも終盤までレースをリードしていたが、トラブルによって後退、2年ぶりの総合優勝を果たすには至らなかった。

 そしてル・マン後のSWCにおいてメルセデスは、2台目の『C291』を投入し、これによって『C11』は一線を退いたのだった。

1990年の世界スポーツプロトタイプカー選手権第4戦スパを戦った『メルセデス・ベンツC11』の2号車。ヨッヘン・マスとカール・ベンドリンガーがステアリングを握った。
1991年のル・マン24時間レースをカール・ベンドリンガー、ミハエル・シューマッハー、フリッツ・クロイツポイントナーのドライブで戦った『メルセデス・ベンツC11』の31号車。

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