全日空と浦和の事件に思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み

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板橋区で生まれ育ったため、西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘。この名称にはどうも馴染めない)は身近なホームグラウンドだ。そんな西が丘サッカー場で行われた第21回JSL(日本サッカーリーグ)第22節、86年3月22日の三菱重工対全日空戦で前代未聞の事件が起きた。

デーゲームの試合で、ピッチに整列した両チームのイレブンのうち、全日空の選手は8人しかいなかったのだ。当時のJSLは前年にメキシコW杯予選で勝ち上がったため、初めて“秋春制”を採用。3月の第22節は最終節だったが、すでに古河電工がDF岡田武史(現今治.夢スポーツ代表取締役)やMF前田秀樹(現東京国際大学監督)らの活躍で優勝を決めていたため、西が丘での試合は『消化試合』と言えた。

そんな状況での試合なので、取材した記者もカメラマンも数が少なかったのは言うまでもない。後で判明したのだが、全日空の選手はチームの待遇に不満を抱き、6人のベテラン選手が試合直前にボイコットを表明して西が丘サッカー場を後にしたそうだ。このため試合開始時間は10分以上も遅れ、栗本直監督は控えの選手2名をスタメンに起用するなどして試合が成立する8人を揃え、没収試合となることを免れた。

当時のサッカー界は、例えば読売クラブや日産などは、金額はJリーグと比べられないまでも“プロ”に近かった。全日空も将来的にはプロ化を目指していたかもしれないが、ボイコットした選手には元古河のベテラン選手がいるなど、待遇にはかなりの差があったようだ。

試合は6-1で三菱が圧勝し、全日空は2部へと降格した。そして問題となったのはボイコットした選手たちである。彼らにも言い分があった。それは当時のJSL総務主事である森健兒が事情聴取した。しかし、JSLの規定には「選手の無断欠場」に関しての罰則や条文は存在しなかった。

このため森総務主事はJFA(日本サッカー協会)の長沼健(元JFA会長)が委員長を務めるJFA規律委員会にコトの次第を報告。長沼は緊急規律委員会を招集し、ボイコットした選手には「国内のあらゆるチームへの登録禁止」を通達した。当時の罰則規定では、「有料公式戦において試合放棄は社会人選手として許されざるべきこと」、「グラウンド内外でのふさわしくない行為に抵触する」として、ボイコットした6選手に対して「無期限登録停止処分」を下した。

しかしながら、形式上は「無期限登録停止処分」でも、長沼さんは「永久追放」と厳しく断罪した。メディアも同様に報じたため、彼らのサッカー人生もそこでリセットされることになった。それでも後年、サッカー界に復帰できことは、長沼さんや森さんら往時の人々の“懐の広さ”を感じずにはいられない。

そして改めて思うのは、JFAの“あまちゃん”体質だ。先月の天皇杯での名古屋戦、浦和のサポーターは、現場で取材した方々に聞くと、蹴る、殴るの暴行を目撃したと言う。実際に現場で目撃したわけではないので、これ以上の記述はできないが、もしもそれが事実なら、もうこれは“犯罪”でしかない。それをJFAとJリーグ、浦和はどう認識しているのか。まずはビデオを含めて映像による事実確認をどこまでしたのか、これは簡単に幕引きをして済まされる問題ではない。


【文・六川亨】

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