「路頭に迷いつつある都市」渋谷から見える日本社会の未来、カルチャーの行方とは? 社会学者の吉見俊哉さんとアーティストの宇川直宏さんが渋谷パルコで対談「渋谷半世紀」~若者の聖地の今~

昔の渋谷の映像の前でポーズをとる吉見俊哉さん(左)と宇川直宏さん=7月29日、東京・渋谷パルコ(撮影・佐藤雄彦)

 スクランブル交差点、センター街、スペイン坂…渋谷はさまざまなカルチャーや風俗を育て若者らを吸い寄せる。コロナ禍を経てインバウンド(訪日客)のにぎわいを見せる公園通りは、代々木公園へ向かうこの坂に1973年「渋谷パルコ」が開業したのを機に名付けられ、今年で50年となる。街の変遷を間近に見つめてきた吉見俊哉(よしみ・しゅんや)さん(66)と宇川直宏(うかわ・なおひろ)さん(55)の論客2人が、渋谷パルコ内のスタジオ「SUPER DOMMUNE(スーパードミューン)」で、実体験や都市論を踏まえて日本社会の未来を語り合った。(共同通信=内田朋子、後藤充)

 ▽路地から文化が消えてしまう

 吉見さんは1982~89年頃、渋谷の道玄坂を上った円山町の近くに暮らしていた。ラブホテル街を抜けた神泉界隈、いまでは裏渋谷と呼ばれるエリアだ。近所に銭湯があり、芸者が歩いていた花街の空気に愛着を感じつつ、“劇場としての都市”を活写した著書「都市のドラマトゥルギー 東京・盛り場の社会史」を書いていた。が、やがて街はバブル景気のなかで急速に巨大再開発の波にのまれていった。
 「今の渋谷の街をちっとも好きになれない。だいたい地下深いホームから地上に出るまで時間がかかる。スクランブル交差点は映像映えするだろうが、渡るときにワクワクする気持ちは全然ない。センター街はごちゃごちゃしていて疲れる。渋谷駅周辺に次々に建設されている超高層ビルには違和感しかない」
 「そんななかで最近よく訪れるのは、渋谷川沿い。その川辺を復活させた渋谷ストリームのデザインは面白いと思う。東横線が地上から消え、渋谷川が身近になった。渋谷パルコは公園通りからは入らない。狭く曲がりくねったスペイン坂を上がり、そのまま路地の延長みたいな建物の外側のエスカレーターを4階まで昇っていくのが好きだ」

渋谷について語る国学院大教授の吉見俊哉さん=7月29日、東京・渋谷パルコ(撮影・佐藤雄彦)

 90年代の渋谷に最も思い入れが深いという宇川さんは、四国の高松市に生まれ育ち、当時から渋谷のタウン誌「ビックリハウス」などを通して80年代の“ユース(若者)カルチャー”情報にも親しんでいた。
 「セゾングループの堤清二(つつみ・せいじ)さんが物質的ではなく精神的な豊かさに目を向け、“脱大衆化”を図ろうとした文化改革も肌で感じていた。巨大開発され他の都市と似通ったジェントリフィケーション(富裕化)が進む今の渋谷で、セゾンカルチャーの息吹を継承し、渋谷パルコ9階に位置するスーパードミューンというこの場所から、日本と世界の重要文化の神髄を発信し続けている」
 宇川さんは、主宰するドミューンで2010年以来、国内外のアーティストらとの対話や音楽ライブを日々動画配信(ストリーミング)している。活動の原点ともなった1980~90年代の“脱大衆化”の流れについて、後にパルコ劇場となる西武劇場が押し出したアンダーグラウンドの劇場文化の洗練、西武美術館から後のセゾン美術館によるマルセル・デュシャンやジャスパー・ジョーンズらの現代アート作品の普及、美術書専門店「アール・ヴィヴァン」が定着させた洋書のアートブックをたしなむ文化、レコードショップ「WAVE」が手がけた輸入盤レコード、ハリウッド資本ではない欧州などのアートフィルムを見せるミニシアター文化の隆盛…といった例を挙げた。

渋谷について語るアーティストの宇川直宏さん=7月29日、東京・渋谷パルコ(撮影・佐藤雄彦)

 ▽街自体がアーカイブだった

 70年代末に日本社会に転換期が訪れようとしていたと吉見さんは振り返る。
 「79年に大平正芳(おおひら・まさよし)首相は施政方針演説で、これからの日本は経済から文化へ、東京集中から地方分散に方向転換すると宣言した。70年代末の時点で、日本は早くも東京集中はまずいと気づき始め、経済から文化へのシフトを考え始めていた。しかし、大平氏の急死後、中曽根政権は東京の再開発を大胆に進めるネオリベラリズム路線へと進んでいった。そして90年代、東京一極集中が止まらなくなった」
 「さらに2000年代以降、日本経済が収縮していくなかで、人々は将来への不安からカネへの固執を強め、その結果、逆に日本は経済も文化も負のスパイラルに陥った」
 その間に渋谷で起きた特異な状況変化を宇川さんが解説し、今なお語り継がれる渋谷系サウンドの由来にも触れた。
 「バブル終焉(しゅうえん)期の1990年代に入っても、レアグルーブ(希少な音源)文化を先導した渋谷・宇田川町の輸入レコード店では世界中の貴重なレコードがたくさん手に入った。そこからフリッパーズ・ギターやピチカート・ファイヴのようなユニットが現れ、さまざまな音楽をサンプリング(引用)した“渋谷系”というジャンルが生まれた。当時はインターネットが本格的に現れる前だが、渋谷にはインターネット的な文化プラットフォームとしての街の機能があった」
 「独自のギャル文化、またヤマンバを極点とする“盛(も)りアイデンティティー”と、それに伴うギャル雑誌カルチャーも生まれ、今で言うインフルエンサーやインスタの加工アプリの源流もこの街を中心に発生したのは明らか。情報がこの街に集まり、新旧関係なく片っ端から新しいラベリングが施されて渋谷にアーカイビングされていた。ウィンドウズ元年と呼ばれた95年、iMac(アイマック)発売の98年を境に、インターネットが一気に大衆へ広がると、渋谷の街としてのパワーやアーカイブ性は衰えていった」

渋谷のスクランブル交差点=6月

 ▽失われてしまった演劇的パワー

 吉見さんが劇場の視点から渋谷の街を語った。
 「70~80年代には、街と劇場が入れ子構造にあった。状況劇場の唐十郎(から・じゅうろう)さん、天井桟敷の寺山修司(てらやま・しゅうじ)さんや劇団黒テントが、劇場と都市の境界線を取り払い、セゾンカルチャーは都市を劇場化し若者を取り込んだ」
 「芝居や舞踏は、演じ踊る“身体”をどこかで信じている。公園通りのパルコ劇場と小劇場『渋谷ジァン・ジァン』(2000年閉鎖)のような、なんだか人が集まってくるという“場所”の力を感じることで、演劇的なものが成立してきた。ところが1980年代半ば以降、都市にうごめく人々からそうした演劇的パワーが失われていく。それ以前から、身体が持つ個性や場所へのこだわりは徐々に失われていった。それは、都市全体がメディア化していく過程と表裏だったと思う」
 かつて吉見さんの世代が心震わせた演劇隆盛の時代から、身体性や場所の属性を薄めるインターネットの時代へ。
 宇川「ステージの中心にいる演者をあがめる文化ではなく、全員が登場人物である自立分散型のネットワーク的なコミュケーションが求められ、渋谷は演劇からクラブカルチャーに移行していったのだと考えている。90年代から2000年代へ、完全にネット時代に入ると、現在のようなリアリティーもアイデンティティーも複数存在していいという観念が生まれ、匿名での投稿もできるようになり、大衆が“国民総批評家”になっていった」
 吉見「世の中全体がフラットでボーダーレスなネット時代に、パルコはどんな形になっていくのだろうか? かつてのパルコはアバンギャルドで、新しいカルチャーを扇動するような面があった。だから若者たちは公園通りの丘を上った。そこにパルコ文化があり、その手前にはジァン・ジァンの芝居小屋があった。ネットでつながり、どこでも同じとなってしまった今、若者は丘を上り続けるだろうか?」

1955年当時の渋谷の街並み

 ▽アメリカと五輪から脱却できない国

 2人の対話は渋谷という盛り場の発展史をさかのぼってゆく。
 宇川「1964年東京五輪の時代に広大なワシントンハイツ(米軍用地・住宅地)が返還され、跡地に代々木公園と国立代々木競技場とNHK放送センターができた。NHKが移転してきたことで、渋谷は情報の発信地だという意識が芽生えた。渋谷公会堂が64年に開館。69年には渋谷ジァン・ジァンができ、その隣の事務所では作家安部公房(あべ・こうぼう)がいち早くシンセサイザーを演劇に導入した。いま問題が注視されるジャニー喜多川(きたがわ)さんがワシントンハイツに暮らし芸能活動に踏み出すなど、数々のエンターテインメントが生まれた。宇田川町の安藤組の安藤昇(あんどう・のぼる)が、愚連隊(ぐれんたい)と呼ばれた青少年の不良集団の文化をファッショナブルにしていった時代もあった」
 元組長の映画俳優として活動した安藤昇の破天荒な足跡を、吉見さんは今年刊行した著書「敗者としての東京 巨大都市の隠れた地層を読む」の中で詳しく分析している。
 吉見「かつて渋谷一帯は兵営の多い街だった。赤坂や六本木から原宿、渋谷までが軍都東京を代表する一大拠点。渋谷の遊興施設も軍人がお得意様だった。敗戦後、代々木練兵場がワシントンハイツに変わるなど、この地域は日本軍の街から米軍の街に変貌する。その米軍の街で派生したファッショナブルな文化に若者たちが吸い寄せられていった。でも、米軍基地がこんなに都心にあっては対米感情が悪化すると心配したアメリカは、オリンピック開催のためにワシントンハイツを返還し、米軍の街はオリンピックシティーとなった。だから、オリンピック以前の渋谷には、日本軍や米軍との深い結びつきがある」
 「敗戦で植民地と軍事力をなくした日本は、米国に最も近い国として自分を位置づけ直し、アジア諸国に対する優位を保とうとし続けた。そして、東京の中で米国に最も近いはずの場所が六本木、青山、赤坂、表参道、渋谷だった。渋谷がこうした戦後のアメリカンシティーから果たして脱却できたのかどうかは、いまだに疑問だ」

東京・代々木のワシントンハイツ=1955年

 ▽低い所から眺望する未来

 吉見さんは2021年の東京五輪によってさらに進んだ渋谷や東京の再開発の過剰さも指摘した。関連して宇川さんが渋谷の近況を語る。
 「18年頃から、エンタメやクラブカルチャーを24時間稼働させるという、渋谷特区的な『ナイトタイムエコノミー政策』の発想があった。海外選手や五輪観戦に来る訪日客のための夜遊びの場と、その消費活動を創出し経済効果を高めるためだった。一方1999年からは、渋谷の高層ビルにインターネットベンチャーを集めてシリコンバレー型の企業集積地域にしようという『ビットバレー構想』も進められ、2000年のIT不況で後退したが、その後、現行の再開発で再び同じようなコンセプトが復権しようとしていた。しかしコロナ禍が始まり、いずれの構想も崩れてしまった。五輪とコロナが渋谷の惨状を招いたと思う」
 吉見さんが提案する。
 「そもそも東京にもうオリンピックなど必要なかった。愚かな発想にみんなが踊らされた。むしろ、東京の未来にとっては街と川の結びつきを取り戻すことが重要だ。渋谷川と宇田川の合流地点に形成されたのが渋谷という場所。近年、若い人たちが川筋に店を出し、文化や商業の活動拠点を持ち始めていることが注目される。渋谷川に沿って原宿に向かうキャットストリートは早い例で、宇田川の先にも奥渋谷が形成された」
 「高速道路は本当に東京都心に必要なのか。これからは脱クルマ社会になる。自動車中心の社会インフラを見直すべきなのだ。1964年の東京五輪で廃止させられたトラム(路面電車)の復活を提案したい。スピードの速い車では、動いている人と歩行者は同じ空間を生きられないが、スローモビリティーの自転車やトラムならば乗客と路上の人は同じ空間を共有できる。速いことは必ずしも良いことではない。多様な速さの都市交通を整備すべきだと思う。容積率を確保しようと超高層ばかりを建てる都市開発も終わりにしたい」

渋谷の街を背にする宇川直宏さん(左)と吉見俊哉さん=2023年7月29日、東京・渋谷パルコ(撮影:佐藤雄彦)

 宇川さんが提案する。
 「世界のアーティストたちが、いま東京に住みたがっている。極度の円安が引き金だが、リモートワークの時代、身体の在りかはどこでもよい。円が安いのは悪いことだけではないと逆転の発想を持ち、移住を希望する海外のアーティストや研究者や技術者にこぞって渋谷に移り住んでもらい、さまざまな分野や世代の人々とコラボレーションできる創造都市を目指すべきでは? 街が栄えるにはその街で生活するアーティストの存在が大きい。渋谷は訪日客の消費によってにぎわう時代が長く続いていたが、消費者の思いでつくられるだけの街は主体がなく、トレンドが過ぎ去り飽きられたらそこで終わってしまう。だからこそ渋谷の文化財とも言える古くからの店、建物、空間を残していかなくては」
 「故郷の高松市の丸亀町商店街は、上層を全て住居にし、人々を住まわせ、ゆりかごから墓場までを商店街の中で実現させたからにぎわいがある。消費から生活の場に変えたことで街が息づいた。こうした取り組みを渋谷にも導入したらいい」
 2人の意見は「下からの目線」による都市づくりで一致した。
 宇川「川を復権させる発想は本当に大切。自分は大阪・中之島の水辺景観を生かすプロジェクトに参加しており、水都の大阪を川の側から考えるという視点でPV(プロモーションビデオ)の撮影を行っている。川の側に物流の経路が今も残っている。御堂筋などの発展している都市に物流させるために“川の道”が開けているということが面白い」
 吉見「東京で自分が思うベストなルートは、日本橋から船に乗って水道橋から神田川を下り、御茶ノ水、浅草橋まで行くクルーズだ。高層タワーから見下ろす風景には皆、慣れすぎている。下から都市を眺望する経験をしてもらいたい。地形、歴史、社会を下からの目線で展望する都市づくりが大切。新宿や池袋と違って渋谷の土地は高低差がかなりある。高低差を下から見て、川筋から街を感じるのがこれからの渋谷。その川筋を活性化させていくことで、都市に残されたさまざまな歴史の痕跡が結ばれていく」
 「人口減少が進む日本では、もう長期の経済成長は再来しない。経済が下降線でも、生活を豊かにする方法はある。経済中心よりも、文化を生かしていく方が、成熟への道のりは確実で、時間がかかっても多くのものがだんだん育っていく。約30年間の経済低迷の時代を経たが、その視点を持つことで、この国の未来に少しでも希望が持てるはずだ」

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