川勝知事著作本に滲む“女性蔑視”思想(前編)|小林一哉 またリニアに関し新たな難癖をつけはじめた川勝知事。事実を無視し、言葉遊びでその場をやりすごすその手法は、学者時代から健在だった――。

中国・浙江省の少年少女記者団に富士山のうんちくを話す川勝知事(静岡県庁、筆者撮影)

あらたな難癖

反リニアに徹する静岡県の川勝平太知事は、今度は、南アルプストンネル静岡工区工事で発生する残土の大規模な置き場について、計画地周辺で「深層崩壊」(表土層だけでなく、深層の風化した岩盤も崩れ落ちる現象で、大きな被害をもたらす)が起きるから不適格だとする主張を始めた。

「残土置き場の計画を見直せ」と簡単に言っても、いまさら計画変更をして新たな残土置き場を検討し直せば、リニア計画はさらに大幅に遅れることになる。

もちろん、川勝知事の主張が科学的根拠に基づいた合理的なものであるならば、議論の余地は十分にある。ところが、実際には、リニア妨害のシナリオに沿った言い掛かりに過ぎないのだ。

8月8日の知事会見で、デタラメな認識に基づく発言に終始したため、「深層崩壊があるとその先にどんなリスクがあるのか?」、「深層崩壊の危険性に対して対策を行うのは静岡県ではないか?」などとNHK、共同通信社の女性記者たちが鋭い質問を繰り出して厳しく追及をした。

川勝知事は質問の内容を意図的にはぐらかして、常人には理解できない意味不明な話を持ち出してごまかした。

意味不明なごまかしが、川勝知事の常套手段である。

今回だけでなく、何か厳しい追及があれば、記者会見は毎回、同じことになる。関係の薄い意味不明な内容の話を次から次へと繰り出して、記者たちを煙に巻いてしまう。さまざまなうんちくを交えて、もっともらしい話にしてしまうのだ。

もっともらしい言葉遊びだが…

先日、中国浙江省・浙江衛星テレビ少年チャンネルの派遣した少年少女記者団20人が、静岡県庁を訪れ、川勝知事に面会した。その折、川勝知事は、世界文化遺産登録10周年を迎えた「富士山」についてのうんちくを披露した。

富士山について、「福と慈」「不と死」「不と二」「不と尽」などさまざまな漢字が使われ、それぞれに深い意味があることを得意げに紹介した。

そのうち、「富と士」は、「立派な人間(士)になるために富を使いなさい」という意味だそうだ。このようなもっともらしい言葉遊びこそが川勝知事の真骨頂なのだろう。
それはいつから始まったのか?

1995年9月、早稲田大学政治経済学部教授の時代に発刊した『富国有徳論』(紀伊国屋書店)を読んで、その秘密がわかった。

同書はまず、提言「富国有徳の国づくり」から始まる。

そこに、〈男性、女性を問わず、世俗にあって廉直な心を持続する者のことを「士」、豊かな物の集積を「富」と名づければ、新日本の建設のために、両者を兼ね備えた「富士のごとき日本人」こそ、めざすべき新しい日本人、いや、とり戻すべき本来の日本人の姿でしょう〉とある。

まさに、中国から訪れた豆記者団に話したようなことが書かれていた。

〈富士のごとき日本人〉とは曖昧で一体、何かわからない。それでももっともらしいことを言われている気がしてくるから恐ろしい。
(※実際の富士山は弾丸登山や海外旅行者の無謀な登山など危険な過密状態が続き、本来の富士山の姿ではなくなっている。富士山の保全について行政責任のトップはもちろん川勝知事である。そのような難しい案件には相変わらず目を背けている)

「あとがき」を読んで目が点に

目が点になった「あとがき」

そして、同書の「あとがき」を読んで、目が点になった。そこに川勝知事の本性を知る大きな手掛かりがあったからだ。関係する部分を紹介していく。

〈1994(平成6)年1月末、真冬の京都は東福寺、鎌倉時代以来の京都五山の1つ、名刹である。その静かな山門の専門道場に打座する若い雲水にまじり、還暦間近の新到の居士(こじ)がいた。前年の暮に世俗の職をなげうって出家した矢野暢(とおる)元京都大学教授である。厳冬のまっただ中で、暖房器具はなく、足袋もはかず、粗末な作務衣で身を包み、朝食は粥に梅干し、昼食・夕食は麦めし・味噌汁・漬物等の粗食の厳しい修業に耐えてすでに1月余、入門以来欠かさず、午前3時起床、本堂での朝課にはじまり、午後9時の消灯後の夜座という屋外坐禅をして就寝するまで日課がつまり、3年、いや20年ともいわれる先のみえない修業に打ちこんでいた。〉

矢野暢氏は元京都大学教授(政治学、東南アジア地域研究学)であり、1999年12月に63歳で亡くなっている。

ウイキペディアには、〈1993年に女性秘書から「暴力を用いた性的関係の強要があった」として、「キャンパス・セクハラ」の告発を受け、京大を辞職に追い込まれる。辞職後、京都市の東福寺に修行として身を隠す〉とある。被害に遭った女性秘書は1人ではなく、最終的にセクハラ、レイプを告発したのは4人だった。

川勝氏の文章は、矢野氏がちょうど身を隠した当時のことを記している。

ただ、食事内容や午前3時起床、午後9時の夜座など東福寺の修行の様子が書かれている。誰に取材したのか、すべて事実なのか疑問は残る。

矢野氏は1993年12月21日に東福寺に入った。

その4日後の25日には『京都新聞』に「諸縁放下」という題名のコラムを寄稿している。コラムで、俗世間との縁を切り、出家の身となったことを表明している。いくら何でも、1週間もたっていないのに、自ら、修行僧と名乗るにはちょっと早すぎるのではないか。

ところが、川勝知事は、見てきたように矢野氏の修行ぶりをたたえているのだ。

すぐにボロが出てしまう。矢野氏本人が1994年2月10日の『朝日新聞』に、京大辞職、出家とも京都大学前学長らによる「身を処すあやつり人形でしかなかった」行為を暴露したからだ。

つまり、自発的な意思で出家したのではなく、「セクハラ」騒動の中、前学長らの仲介で東福寺に仕方なく入ったと言うのだ。

事実関係を確認せず矢野氏を称える

また矢野氏のあまりに自由奔放なふるまいに、辞職等の経緯を最もよく知る元同僚の高谷好一教授が2月23日の『京都新聞』に「友人矢野君に訴える」という文章を寄稿している。

〈(「諸縁放下」のコラムだけでなく)私をもっとガッカリさせたのは、君がその後お寺から友人、知人たちに出した百数十通もの手紙だ。…君は沈黙を守り続けてきたかのごとくいうが、そうではない。人びとはそれを見て、出家の意味を疑った。〉

つまり、高谷教授は、川勝氏の思い描いた「世俗の職をなげうって出家した」のではなく、単なるポーズでしかなかったことを暴露したのだ。

川勝知事が「あとがき」を書いたのは〈1995(平成7)年麦秋〉とある。

1年も以上前に、矢野氏本人の「自発的な出家ではない」、高谷氏の「出家の意味を疑った」の文章が発表されていた。ところが、川勝知事の文章は、そんな事実関係を確認せずに、矢野氏の出家をたたえるのみである。矢野氏を一方的にたたえるのは、いわく言い難い関係にあったのかもしれない。

川勝知事の「あとがき」を続ける。

〈大寒となり、山門は大摂心という昼夜を問わず座禅修業に取り組む厳粛な行事に入った。女人禁制である。
ところが、それに頓着せず、山門の外から、矢野居士を出せと冬空に叫びたてた女性グループがいた。東福寺は、あろうことか、彼らを招じ入れた。1月26日のことだ。彼らは、皮製とみられるソファー、絨毯、エアコンを備えた、山門には場違いの立派な応接間で、録音テープレコーダーを膝におき、文章をつきつけた。夜叉の相貌を露にした彼らの荒い息づかいを伝える写真が写真誌『フォーカス』(1994年2月9日号)に載った。
応対しているのは東福寺管長の福島慶道。記事によれば、福島管長は女人の要求(私怨)に理解を示し、くだんの居士を寺から追放すると言明した。
そして、客とともに写真に収まった。その写真を載せた頁の隣に、別の写真が掲載されている。質素な作務衣の矢野居士である。寺内において何者かに盗み撮りされている。修業生活の一こまをとらえており、見た眼にも無防備だ。
いったいだれがその写真を撮ったのか。破門に値するのは隠し撮りに加担した寺内の輩であろう。これらの写真は発行部数85万部の週刊誌に載って世間にさらされた。片や東福寺派の大本山の頂点にありテレビ出演で京雀にもてはやされる管長、片や髭を生えるにまかせ厳しい修業生活で世俗心をすっかり洗い落としたかに見える新到の雲水。両者の、いったい、どちらが僧の本来の姿なのか。〉

セクハラ被害者を救援する女性たちを攻撃

矢野氏が東福寺の修行を「諸縁放下」として『京都新聞』のコラムが掲載された翌月の1月26日、矢野氏の「キャンパス・セクハラ」を追及する女性たち(大越愛子・近畿大学助教授ら5人)が、東福寺の福島慶道管長に面会した。

「矢野暢・京都大学東南アジア研究センター前所長のセクシャル・ハラスメント疑惑事件の徹底究明を求める大学教員の会」が集めた署名を福島管長に手渡した。

その席で、福島管長は「やはり、ここにいてもらってはいかん、ということで出ていってもらいます。はっきりいうて、矢野先生が入ってきたために東福寺の名に傷がついた。入るのを私が認めたわけだから、私の責任で何とかします。それよりも私は、矢野先生はやっぱり相手の人にそれこそ誠意ある対応をしたらよいと思います。非常に残念な気持ちです。だけど世界に誇る京都大学で、なんでこんなことが今まで放置されていたのか驚きました」と語っている。

京都大学前学長らから頼まれたので、矢野氏を受け入れたが、出て行ってもらうのも福島管長の責任だと言うのである。

これに対して、抗議に訪れた女性たちを〈夜叉の相貌を露にした彼らの荒い息づかい〉と表現し、〈女人の要求(私怨)に理解を示し、くだんの居士を寺から追放すると言明した〉などと福島管長に不満を述べたのが川勝知事である。

福島管長が「矢野先生はやっぱり相手の人にそれこそ誠意ある対応をしたらよいと思います。非常に残念な気持ちです」と述べたことを当然、川勝知事も承知していたはずだ。

それなのに、〈京雀にもてはやされる管長、片や髭を生えるにまかせ厳しい修業生活で世俗心をすっかり洗い落としたかに見える新到の雲水〉と書いている。当時の『フォーカス』を探すことはできなかったが、もし、禅寺の僧堂に入るならば、ちゃんと剃髪して髭を生えるのにまかせるなどもってのほかである。

川勝知事が「あとがき」を記したのは、セクハラ疑惑発覚から1年以上もたっている。事実関係はすべて明らかになっていた。それなのに、一方的に矢野氏を信用して、被害者の救援に当たる女性たちを「夜叉の相貌を露わにした」「女人の要求(私怨)」などと貶めてしまう姿勢はいまと全く変わらない。
(次回、詳しく川勝知事の本性について紹介する)

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