川勝知事著作本に滲む“女性蔑視”思想(後編)|小林一哉 セクハラ被害者に手を差し伸べる女性を攻撃した川勝著作本の「あとがき」。読み込むとさらなる川勝知事の「本性」を知ることができる大きな手掛かりが――。

中国・浙江省の少年少女記者団と記念写真におさまる川勝知事(静岡県庁、筆者撮影)

宗教界全体への批判を展開

静岡県の川勝平太知事が1995年12月に発刊した著書『富国有徳論』(紀伊国屋書店)の「あとがき」に、川勝知事の本性を知ることができる大きな手掛かりを発見した。「川勝知事著作本に滲む“女性蔑視”思想」の後編である。

セクハラ騒動から禅寺へ逃げ込んだ矢野暢(とおる)・元京大教授を東福寺が匿っていることに抗議に訪れた女性たちを、川勝知事は〈夜叉の相貌を露にした彼らの荒い息づかい〉と表現し、僧堂に迎え入れた東福寺の福島慶道管長を『女人の要求(私怨)に理解を示し、くだんの居士を寺から追放すると言明した』などと非難した。

『富国有徳論』の「あとがき」では、東福寺だけでなく、全く関係のない宗教界全体への批判に結びつけていく。
〈禅は不立文字(ふりゅうもんじ)、世間の喧騒に乗って物分かりのよいところを見せるところではないはずである。相手はそもそも招かれざる客である。山門の入口で一喝してとりあわないのが筋であろう。入門を許し、寺の課する修業に耐えている者を、俗世の理屈に屈して、いとも簡単に放り出すとは、慈悲のかけらは露ほどもない。週刊誌のゴシップに無言をつらぬき、ついに発心した人間が、世間の諸縁を放下して、山門に入ったのである。その山門に見放されれば、いったいどこに行き場があろう。世を捨てた人間に、鞭を打ち、難詰するのはいじめである。職も名誉も捨てた一介の人間から、安心立命の場を取り上げるのは、いじめへの加担である。アジール(ドイツ語Asyl:犯罪人が復讐などから守られるよう配慮された一定の場所、中世ヨーロッパの教会や自治都市)のない社会では、世俗をまみれながら、生を全うする以外に道はない。
昨年の矢野暢元京都大学教授の出家を政治化する動きも、今年のオウム真理教の信者が軍事化した動きも、日本の宗教集団への失望感を増幅させる。
山門を実態以上に仰ぎ見てきたのは、寺の作為というより、門前に逡巡しながら宗教の道に踏み入れずいるのは、漱石ばかりではなく、漱石を読みついできた近代日本人に通底する懊悩であった。名刹とは名ばかり、実態は免税特権を享受する職業坊主養成所ではないか。建築や庭園によって人をひきつける観光名所になっているのは東福寺ばかりではないであろう。観光は立派なサービス産業である。その収益は課税されるべきである。理不尽な寄進を要求して蓄財する宗教団体もあるようだ。宗教法人は、心に恥じるところがないなら、経理を常にガラス張りにし公開しておくべきであろう。経理公開に耐えられないならば、宗教法人の免税特権を剥奪すべきである。〉

時系列、事実関係を無視

まず川勝知事の東福寺への非難がおかしいことは時系列にすればすぐにわかる。

1993年12月21日、矢野氏が修行のためと称して、東福寺に入った。
その4日後の12月25日、矢野氏は『京都新聞』に「諸縁放下」と題するコラムを寄稿した。
1994年1月26日、セクハラ事件を問題にした女性グループが東福寺の福島慶道管長に面会した。
1月29日、矢野氏は東福寺を出た。
2月9、10、11日の3日間、『朝日新聞』東京版が「矢野元京大教授のセクハラ疑惑」を取り上げ、9日に「事件の経緯」、10日に「矢野氏の釈明の手紙全文」、11日に落合恵子氏の談話などが掲載された。(※ちなみに、この特集は、東京版には掲載されたが、大阪本社版には掲載されなかった。京都の人たちは矢野氏の釈明等を読むことができなかった)

2月10日の朝日新聞に矢野氏は辞職、出家に至った経緯を寄稿した。辞職、出家は、京都大学前学長らの状況判断に身を処すあやつり人形でしかなく、「異様な状況で催眠術にかけられた」ような「軽率な行為」と書いている。

1995年麦秋(初夏)、川勝知事は「あとがき」に、〈週刊誌のゴシップに無言をつらぬき、ついに発心した人間が、世間の諸縁を放下して、山門に入ったのである〉と書いた。

発心したわけでもなく、無言をつらぬいていないことは矢野氏本人が朝日新聞に書いている。

1年後に、この事件の事情を全く知らない人が『富国有徳』の「あとがき」を読めば、東福寺への非難など“事実“はそうだったのかと思うような真っ赤な嘘を川勝知事は書き連ねたのだ。

「アジール」を自ら捨てた矢野氏

『朝日新聞』の記事が掲載された後、同僚の高谷好一教授が東福寺にいる間に百数十通もの手紙を友人、知人に送っていた事実を『京都新聞』に発表した。

修行などそっちのけで、言い訳の手紙を書いていただけではない。

〈(1995年)1月末、(矢野氏は)寺の都合で道場を出なければならなくなった。私たちは次の修行の場を探し、やっとのことでそれを見つけた。だが、その矢先に君は突如、単独で寺を出てしまった。〉ことも明らかにした。

一方、川勝知事は〈ついに発心した人間が、世間の諸縁を放下して、山門に入ったのである。その山門に見放されれば、いったいどこに行き場があろう〉と心配している。

実際は、元同僚たちが新たな山門を探してきたのだ。それも、どこにいるのかをちゃんと秘密にするように矢野氏に因果を含めたのだろう。

新たな山門で矢野氏は発心したわけでも、世間の諸縁を放下したわけではない。その事実を矢野氏本人が書いている。

矢野氏が編者を務めた『講座現代の地域研究 第2巻世界単位論』(弘文堂)の「あとがき」に、矢野氏は〈私は昨年12月31日付で京都大学東南アジア研究センターを辞任している。その後、直ちに、京都の東福寺専門道場にはいり、禅の修業をはじめたが、その寺もわずか40日で出ざるをえないことになり、ことしの1月29日から今日までのまるふた月、私は、身心の治療を兼ねて自宅を離れた仮ずまいの生活をしてきた。私がこの巻に寄せた3本の拙い論文は、このふた月のあいだに、心身ともに不調な状態で、苦しみながら書いたものである〉と書いた。

「あとがき」の日付は1994年3月29日となっている。

せっかく、高谷教授らが見つけてきた山門で修行をすることなく、それまでの世俗と同じ生活をしていたことも自らが明らかにした。

〈職も名誉も捨てた一介の人間から、安心立命の場を取り上げるのは、いじめへの加担である。アジールのない社会では、世俗をまみれながら、生を全うする以外に道はない。〉とまで川勝知事は書いている。せっかくの「アジール」を自ら捨てたことを矢野氏は川勝知事に伝えなかったようだ。

川勝氏にとって「セクハラは小事」?

いずれにしても、川勝知事の「あとがき」は、事実関係を全く理解しないで、単に矢野氏を頭から信用していることだけのことだ。

川勝知事の「あとがき」にある〈矢野暢元京都大学教授の出家も政治化する動き〉が何を指すのかわからない。当時、矢野氏がスウェーデン王立科学アカデミー会員としてノーベル平和賞の選考等に深く関わっていたことから、新聞、週刊誌等がセクハラ事件もでっち上げたとするうわさがあったようだ。実際にはセクハラ、レイプ事件は真実であり、ノーベル賞選考とは何ら関係もない。

川勝知事が〈日本の宗教集団への失望感を増幅させる〉思いで、宗教法人の免税特権を剥奪することまで求めている。

これも本質の話をそらして、もっともらしい批判をする現在の姿と全く同じである。

本質の話とは、矢野氏本人が関わったとされる「セクハラ事件」についてである。同じ大学教官としてはひと言も触れないのは、不思議な話である。あるいは、事実をちゃんと承知していて、川勝知事は無視したのかもしれない。

1994年3月、矢野氏は文部大臣に辞職承認処分取り消しを求める行政訴訟を起こし、その他、4件のセクハラに関する民事訴訟を起こしている。

レイプとセクハラを訴えた元秘書には、名誉棄損による500万円の損害賠償を請求した。裁判の途中で、矢野氏自身がセクハラ、レイプ等を認め、裁判すべてが矢野氏の完全な敗北で終わった。(ウイキペディアで「矢野事件」を調べれば詳しくわかる)

川勝知事が矢野氏の名誉を優先して、東福寺を訪れた女性たちだけでなく、宗教界全体を厳しく批判した背景には、矢野氏の主張を信じて、セクハラ、レイプ等を認めないのか、あるいは男性優位の社会では、「セクハラは小事」であり、その程度のことは許されると思ったのかのいずれかだろう。

川勝知事の「本性」

30年前と現在でどのくらい川勝知事に変化があったのか。

記者会見で、女性記者たちの真摯な質問を蔑ろにしてごまかすのも、その内面にはびっくりするような差別意識があるからだと思えば、納得できることが多い。

矢野事件の裁判に証拠として提出された「五訓」(秘書心得)、「出張の際の心がけ」を読んでいて、まるで川勝知事作成の「ふじのくに公務員心得8カ条」や「知事心得5カ条」を頭に思い浮かべてしまった。

(ちなみに、矢野氏の「秘書心得」は1、矢野先生は世界の宝、日本の柱です。誇りをもって日々の仕事にはげみましょう。1、矢野先生が心安らかにご研究とお仕事に専念できるよう、私たちは、自分のもてるすべてを捧げてお尽くしいたしましょう、など読むだけでも恥ずかしくなる代物だが、矢野氏は朝礼で唱和させていたという)

30年前の事件は、現在とは全く無関係かもしれない。

しかし、川勝知事の偏見に満ちて、事実を全く押さえようとしない姿勢は現在と全く同じである。

リニア妨害のためだけに事実をわい曲して、真っ赤な嘘をつくことに相通じている。

ただ矢野氏と違うのは、川勝知事は県トップとしてリニア妨害を正当化できる権力を持つことだ。いずれ川勝知事は「本性」によってその地位を失うだろうが、いまのところ尻尾を見せないだけである。

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小林一哉(こばやし・かずや)

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