岩渕真奈が語る、引退決断までの葛藤。「応援してくれている人たちの期待を裏切るようなプレーをしたくない」

なでしこジャパンの中心選手として長く活躍し、日本女子サッカー界を牽引してきた岩渕真奈が、現役引退を表明した。16歳で代表入りし、2011年には18歳でFIFA女子ワールドカップ優勝メンバーに名を連ねるなど、14年間で3度のワールドカップと2度のオリンピックに出場。通算90試合に出場し、37得点を挙げた。今夏、オーストラリアとニュージーランドで開催されたFIFA女子ワールドカップではメンバーに選ばれず、9月1日には自身のSNSで、引退の意思と感謝の言葉とともに、こう綴った。「サッカーが大好きで サッカーで出会った人達が大好きで 何より自分のサッカー人生が大大大好きでした」。日本、ドイツ、イングランドの強豪クラブと代表で築いた重厚なキャリアと、30歳で引退を決意した理由、引退後のキャリアについて、引退発表後初のロングインタビューで明かした思いとは――。

(インタビュー・構成=松原渓[REAL SPORTS編集部]、写真提供=FF)

「自分のサッカー人生が大大大好きでした」

――現役生活、お疲れ様でした。9月1日にSNSで引退を表明されてから惜しむ声がやみませんが、まずは引退を決めた理由について教えてもらえますか?

岩渕:サッカーをやっている以上は、上を目指して日々成長したいという思いがあったのですが、昨シーズンは1年間を通していろいろと悩むことが多く、ケガのことやアーセナルでなかなか出場機会を得られない中で、自分がサッカー選手として追い求めてきた姿でプレーし続けられるのかと自分に問いかけた時に「難しい」と感じて引退を決めました。ワールドカップの落選が大きくフォーカスされがちですが、それが一番の理由です。

――プロとして自身のコンディションやパフォーマンスと向き合う中で、ユニフォームを脱ぐタイミングについても以前から考えることがあったのでしょうか。

岩渕:本当に1年1年、自分と向き合って考えていましたが、前回のワールドカップが終わった後ぐらいから、引退するのは大体このくらいだろうなっていうイメージはありました。やっぱり、ワールドカップというものは自分にとって大きくて。正直にいうと、今年の夏の大会が終わってから、サッカーを続けるかどうか考えようと思っていたんです。1年後にパリ五輪があるとわかっていた中で、それだけ、今回のワールドカップが自分にとって大きなものになると思っていました。

――それだけ強い思いを持っていた中で、実際に引退を発表するまでには相当な葛藤もあったと思いますが、心残りはなかったですか?

岩渕:この3、4カ月間は本当に悩み続けて、相談した人たちからは「引退するのはまだ早い」「現役を続けるべき」と言われました。ただ、自分が理想のサッカー選手でいられなくなるという不安や、応援してくれている人たちの期待を裏切るようなプレーをしたくないという気持ちが一番でした。

――SNSで引退を発表してからは、本当に多くのメッセージが寄せられたと思いますが、それを見てどんなことを感じましたか?

岩渕:正直、発表するまではそれが正解なのかもわからなかったし、自分の周りは「もったいないよ」っていう人が多かったので、どういう反応をされるのか少し不安もあったんです。でも、発表してからは割とスッキリしていて、本当にたくさんの人に応援してもらってありがたいなっていう気持ちと、サッカー選手でいられて幸せだったという気持ちが湧いてきて、このタイミングで発表できてよかったなと思っています。

――SNSで投稿した文章の中に、「自分のサッカー人生が大大大好きでした」という言葉がありました。どんな思いでそのように書いたのですか?

岩渕:ワールドカップのメンバーに選ばれなかったことは、いろんな人が気にしてくれていました。それはもちろん悔しかったし、最後にプレーする姿を見せられなくて申し訳ないなって。でも、私のサッカー人生は本当に人に恵まれていたし、サッカーを通じて誰もができないような経験をたくさんさせてもらえて、本当に幸せでした。だからこそ、ネガティブな言葉で終わりたくなくて。タイミング的には「ワールドカップに落選したからやめた」と思われてもおかしくないと思いますが、だからこそ、それだけはわかってもらいたくて書きました。

10代でスターに。注目や期待を喜びに変えてプレーできた

――中学生の頃から日本女子サッカー界のスターとして注目され続けてきた中で、期待される喜びだけでなく、プレッシャーや葛藤も常にあったと思います。そのような世間の期待をどんなふうに受け止めてきたのでしょうか。

岩渕:本当にプレッシャーもありましたけど、期待してもらえることの喜びを力に変えてプレーすることができたと思います。

――岩渕さんといえば、足にボールが吸いつくようなドリブルでマラドーナにかけて「マナドーナ」の愛称でファンを魅了してきましたが、どんな場所でもその武器を貫いてきた原動力は何だったんですか?

岩渕:サッカーはボールがないとできないので、小さい頃からボールを触り続けた結果だと思います。それに、選手やスタッフや監督にはものすごく恵まれていて。チームによってプレースタイルが合う、合わないはあるので、多少は合わせなきゃいけないと思うものの、ドリブル以外のプレーが器用にできるわけでもなかったので、周囲が自分のわがままなプレーを受け入れてくれたこともあって、好きなプレーをやってこられたんだと思います。

――プロのキャリアの中では、ケガに苦しんだ時期もありました。改めて振り返ると、どんな経験でしたか?

岩渕:たくさんケガをしたし、周囲の人に助けられて乗り越えてきました。その分いろいろな人に心配をかけていたと思うのですが、自分の中では大したことではないというか。「そりゃ、あんなにやってたらケガもするよな」ぐらいにしか思っていないです。サッカーをする中ではケガをした悔しさよりも「負けたから悔しい」とか、そういう感情のほうが大きかったですね。だから「ケガが重なった」って言われるのは悔しいですけど、自分のキャリアの中でキーワードを挙げたらどうしてもケガは入ってくると思うし、ケガが与えてくれたプラスなこともたくさんあると思っています。

19歳で海外挑戦を決断。「楽しさ」が原動力に

――日テレ・ベレーザから2012年にドイツのホッフェンハイムに渡り、2017年以降はINAC神戸レオネッサを経て、イングランドのアストンビラ、アーセナル、トッテナムなどでプレーしました。10代から海外に挑戦してきたことは、今振り返るとどんな経験でしたか?

岩渕:ドイツに行った時は体の変化する時期で、ケガも多かったんですけど、バイエルンではリーグ優勝を経験できて、サッカーの厳しさや戦うことの大切さも学べました。19歳で日本を出た時に、言葉もわからない環境で生きていくというものすごくタフで大変なことをやったからこそ、たくさんのことを学べました。その後、日本に帰ってきてから「もう一度海外に出よう」と思えたのもドイツでの経験があったからだと思いますし、成長するためにって考えたら、海外のほうが自分には合っていたと思います。出て良かったなと思いますね。

――ドイツでは世界の女子サッカーを取り巻く環境の変化やレベルアップも肌で感じたと思いますが、2017年に久々に日本に帰ってプレーした時はどんなことを感じましたか?

岩渕:サッカーの種類が違うので比べるのは好きじゃないんですけど、生活面もサッカーの部分でも、海外に比べたら楽だったと思います。その時の一番の目標は東京五輪に出場することだったので、ケガなく、健康に自分の体をフィットさせるという意味では日本に帰って本当に良かったし、その3年間ちょっとの期間で得た経験は、その後なでしこジャパンで日本人の選手たちとプレーするところにもつながりました。体に関しては、その時が一番フィットしていたと思います。

――2021年からは女子サッカー最高峰のイングランド・FA女子スーパーリーグに挑戦しました。言葉や生活面も含めて楽な場所でプレーし続けようとは思わなかったんですね。

岩渕:本当に「上を目指したい」という一心でしたし、海外の生活は楽しかったです。ドイツでいろいろな選手と対戦したからこそ、「またあの選手とサッカーをしたい」っていう気持ちでやっていたので。苦しさとか大変さよりも、そういう楽しさが自分のサッカー人生では大きな原動力になっていたと思います。

「結果が出なくなった頃に、日本代表として戦う価値を改めて感じた」

――なでしこジャパンでは90試合で37ゴールを決めました。特に印象深いのはどのゴールですか?

岩渕:1つだけに絞るのは難しいですけど、2010年に日本で開催された東アジアサッカー選手権で決めた代表初ゴールは鮮明に覚えています。あと、2015年のワールドカップの準々決勝で決めたオーストラリア戦のゴールは、一日でも長くあのチームで過ごすために力になれたという意味で、いいゴールだったなと思います。決勝でアメリカに敗れて優勝できなかった悔しさも同じぐらい覚えていますけどね。

――その後は世代交代が進む中で、チームの中心として上の世代と新しい世代をつなぐ役割を担い、結果が出ない苦しい時期も支えました。そういう時期も含めて、岩渕さんにとって代表はどういう場所でしたか?

岩渕:代表は選手として目指すべき場所だし、当たり前にいられる場所ではないと思っていました。ただ、そこに若い時期から入れてもらって、自分にとってはいい意味で当たり前の場所になっていて。2011年のワールドカップで優勝させてもらって、すごい先輩たちの背中を見てきた中で、自分が同じようにその責任を背負えるようになってからは、ものすごくプレッシャーがありました。代表に若い子たちが増えれば増えるほど、上の世代がどんどんいなくなっていくのが寂しかったし、苦しかったです。その中でも、日本代表として戦うことがどれだけ価値があって、どれだけ難しいことかっていうのを、結果が出なくなってきた頃に改めて感じていました。

自分は自分らしく頑張ろう、と思いながら向き合う中で、若い選手たちの良さや人間性を尊重しつつも、「代表はもっとこうあるべき」っていう自分の理想があって……。ただ、時代が変わっていく中でそれが少しずつ変わっていった部分もあったし、そういう葛藤の中でやっていく難しさはありました。でも、そういうこともすべて含めて、自分にとっては代表という場所にいられた楽しさのほうが大きかったですね。

――若い頃からプレーで見せるタイプだったと思いますが、苦しい時期は背中で引っ張りながら、年下の選手やメディアに対しても自分の思いを言葉で伝えようと頑張っていましたね。

岩渕:プレーはもちろんそうですけど、言葉でもある程度頑張って、伝えなきゃいけないなとは思っていました。そんなに器用なタイプでもないので、わりとストレートに伝えがちだったんですけどね。

――東京五輪では背番号10を背負いました。背番号にはどんな重みがありましたか?

岩渕:若い時から所属クラブでも10番を付けさせてもらっていたので、やっぱり何番が好きかって聞かれたら「10番」って答えます。代表では澤(穂希)さん、(阪口)夢穂さんの後で、本当にすごい選手たちが付けていた番号を、日本開催の東京五輪という舞台で付けて出場できたことは本当に幸せでした。

――当時のチームは国内でプレーする選手が多かったですが、世界との差をどのように伝えていたんでしょうか。

岩渕:ワールドカップなどを見てもらってもわかるように、世界で勝つためには、本当に強さやパワーを持ってゴールに向かうことが必要になってきています。今の代表の中心にいる(長谷川)唯とか(清水)梨紗たちに、結果として何かを残すことはできなかったですけど、「海外に出たほうがいいよ」っていうのは伝え続けてきました。代表は即席で集められた選手たちで成り立っているチームだからこそ、個人としての成長が一番大事だし、日頃からそういう相手と戦うことがどれだけ大事かっていうことを伝えたかったからです。

東京五輪で負けた後、ロッカーに戻ってすぐに「みんな(海外に)出ろ」って言ったんです。それが今にどれだけつながっているかはわからないですけど、海外に出て学べる、強くなれることは絶対にあるので。今後、なでしこジャパンが強くなっていく過程の中で、選手一人一人が成長することでしか上に行くことはできないと思っています。だから今、こうして若い選手たちがたくさん海外に出ているのはいい傾向だと思うし、厳しい環境に挑戦している選手たちには頑張ってもらいたいなって思います。

初めて外から見たワールドカップ。「何かを感じてもらえる存在に」

――改めて振り返るのはつらいことかもしれませんが、今年の夏のワールドカップで、なでしこジャパンの戦いは岩渕さんの目にどう映りましたか?

岩渕:自分が立ちたかった場所を初めて外から見て、正直な話、やっぱり自分も関わっていたチームだし、メンバーに入ることができなくて悔しい気持ちしかなかったし、見たくないと思っていました。でも、みんなが頑張っているのは気になっていたので、最初の試合をテレビで見始めて。前半15分くらいで「つまらないな、これ以上見ていてもな」って思って消して。でも、やっぱり気になって、つけたり消したりしながら見ていましたね。ただ、日本にいることで感じる女子サッカーの価値というか、ニュースでどのぐらい報道されているのかとか、テレビ中継があるのかないのかっていう部分は肌で感じることができて。だからこそ、自分ももっと女子サッカーのために何かをしなきゃいけないとワールドカップ中に思いました。

結果はベスト8で、満足できる結果だとは思わないですけど、いろんな人が想像していたよりも勝ち進んだのかなと思います。ただ、結果はもちろんそうですけど、何か心にグッとくるものを見せられるように選手たちにはもっと頑張ってもらいたいなと思いました。それが何か具体的に答えをいえるわけではないんですけどね。2011年の優勝がある限り、世の中の期待値として高くなっちゃっているし、自分もそれは現役中にものすごく苦しんだ部分ではあるんです。

でも、そういう結果以上のものって、見ている人からは見えると思うんです。それは、バスケットボール日本代表の戦いを見ていてすごく感じました。なでしこジャパンの選手たちも必死に戦っているし、最後まで諦めてもいないと思いますけど、もっともっといいチームになって、結果以外の何かを一般の人に感じてもらえる存在になってほしいし、なるべきだなっていうのは、外から見ていて感じました。

――それはスタジアムに足を運んでくれるお客さんの数にも反映されそうですね。代表や海外の状況も踏まえて、国内のWEリーグには今後、どのように発展していってほしいと思いますか?

岩渕:個人的にはプロは上を目指す集団であるべきだと思うし、「お金もらえて好きなサッカーやれてラッキー」っていうテンションでやるべきところではないと思っています。ただ、そういう高い意識を持った選手がWEリーグにどれだけいるか考えた時に、そう思っていない選手もWEリーグには少なからずいると思います。その点はリーグのやり方にも関わってくると思いますが、例えばチーム数を減らして短期のシーズンにして、アメリカの国内リーグがやっていない期間にリーグをやって、アメリカの選手を呼ぶのも一つの方法だと思います。

女子の小学校のチームの全国大会がなかったりとか、中学生でプレーを続ける受け皿がないとか、そういう面を考えると、日本で女子のスポーツを発展させるのは難しいんだろうなって思いますけど、サッカーをプレーする男の子はあれだけいて、巻き込み方によっては絶対方法はあると思うので。そういう部分を改善していく中で、WEリーグも時間をかけて良くなっていくと思うし、そういう部分に関しては自分が考えたり、できることがあるなら力になりたいですね。

サッカーで出会った仲間は「自分のすべて」

――サッカーを通じて出会った仲間やチームメートは、岩渕さんのサッカー人生を彩る存在だったと思います。改めて、その仲間への思いを教えてください。

岩渕:もう、一言じゃ言い表せないですよね。自分の人生がサッカーで、友達はほとんどサッカー関係だし、つながっている人もサッカーとは切り離せないので、自分のすべてというか。一つの目標に向かってみんなで日々やっていく楽しさは個人スポーツにはない楽しさだと思うし、「幸せ」って言葉はもう使いすぎているかもしれないですけど。それを自分の周りにいる選手や友達、先輩だったり後輩だったり、今まで一緒にやってきたすべての人たちと共有できてよかったなと心から思います。

――その中でも、2011年のワールドカップ優勝メンバーは本当に特別な瞬間を共有した選手たちだったと思います。

岩渕:そうですね。優勝という結果がもたらしたものなのか、その感覚を言葉にするのは難しいんですけど、あの時のチームの雰囲気だったり、選手たちの感じがものすごく好きで。それに一歩でも近づきたいという思いでどのチームでもやってきました。自分一人じゃどうしようもできないんですけどね。自分が年下という立場もありましたが、あの時のチームは今でも、やっぱり特別だなって思います。

ネクストキャリアは「スポーツの楽しさを伝えたい」

――女子サッカーの育成年代のよりよい環境づくりにも強く関心を持たれていると聞いていますが、引退後にやってみたい活動や、今考えているプロジェクトなどはありますか?

岩渕:まだ具体的に話が進んでいるわけではないのですが、レスリングの登坂絵莉さんとテニスの穂積絵莉さんと交流があって、「スポーツの良さや楽しさをもっといろんな人に知ってもらいたい」という共通の思いから、自分たちができることはないか、以前からいろいろと話をしてきたんです。勝負にこだわるスポーツの楽しさはもちろんありますけど、体を動かすことや、仲間と一緒に何かをやること、できないことができるようになること。そういう楽しさを、もっといろんな人に知ってもらいたいよね、と。

サッカーだけを見ても、障がいを持つ方たちのサッカーは7種類あります。でも、障がいを持った子たちがそのことをどれだけ知っているかと考えたら、知らない子も多いと思うんですよ。サッカー以外でも、レスリングなら体を動かす楽しさがあると思うし、テニスなら道具を使う楽しさがありますよね。3人がそれぞれの強みを生かしてそういう楽しさを伝えたり、スポーツに関わる機会がない子どもたちにそういう場を提供できたら、もっといろんな子どもたちの未来を広げられるんじゃないかなと思います。

「スポーツで人生を豊かにする」って言ったら、ちょっと大げさかもしれないですけど、本当にそうなってもらいたい、という願いを込めながら活動をしていけたらいいね、と3人で話しています。

――すごく面白そうですね。サッカーにはどのような形で関わっていきたいですか?

岩渕:「何でもやってみたい」っていう気持ちはあるので、自分が聞いたり、見たり、ちょっとでもやりたいって思えることは、何事もチャレンジしたいと思ってます。ただ、解説は難しいかなと。サッカーって本当に同じ瞬間がなくて、その中で自分が選手のプレーに対して外からどうこう言うのはあまり好きじゃないというか。うまくいったらもちろん肯定したり、拍手を送りたい。でも、うまくいかなくてもその選手なりのアイデアや考えを否定したくないし、そこには踏み込みたくないというか。なので、やってみたい気持ちはゼロではないんですけど、自分には向いていないんじゃないかな、とは思います。

――指導者の道はどうですか?

岩渕:サッカーを言葉で表現するのが苦手なので、指導者向きではないと思います。自分のプレーに自信を持てる選手を育ててみたいとは思いますけどね。

――それはいいですね! 最後に、今まで応援してくださった方へのメッセージをお願いします。

岩渕:まずは「本当に応援ありがとうございました」と伝えたいです。皆さんの応援が本当に力になりましたし、その応援のおかげですごく楽しくサッカーをすることができたと思っています。これからも自分のことを応援してほしいですけど(笑)、それ以上に女子サッカーを一緒に盛り上げてほしいので、皆さんのパッションやこうしてほしい、という意見をもらえたらうれしいです。それが日本女子サッカーが成長する一つのきっかけになると思うので、これからもよろしくお願いします!

<了>

「うまいだけでは勝てない」岩渕真奈が語る、強豪アーセナルで痛感した日本サッカーの課題

岩渕真奈、初めて明かす東京五輪の本音「この悔しさを経験した選手達が強くなれない理由はない」

岩渕真奈「女子サッカーの発展に、目を背けず真剣に考えていきたい」五輪8強敗退で明かす覚悟

「選手はプロ化を焦っていない」“なでしこのエース”岩渕真奈がWEリーグに対する「本音」

岩渕真奈が振り返る、10代の葛藤 「自分のプレーと注目度にギャップがあった」

[PROFILE]岩渕真奈(いわぶち・まな)
1993年3月18日生まれ、東京都出身。小学2年生の時に関前SCでサッカーを始め、クラブ初の女子選手となる。中学進学時に日テレ・メニーナ入団、14歳でトップチームの日テレ・ベレーザに2種登録され、2008年に昇格。2012年よりドイツ・女子ブンデスリーガのホッフェンハイムへ移籍し、2014年にバイエルンへ移籍、リーグ2連覇を達成。2017年に帰国しINAC神戸レオネッサへ入団。2021年1月よりイングランド ・FA女子スーパーリーグのアストン・ヴィラへ移籍。2021-22シーズンからアーセナルでプレーし、2023年1月からトッテナムへ期限付き移籍。6月にアーセナルを退団し、9月1日に引退を表明した。日本代表では、2008年FIFA U-17女子ワールドカップでゴールデンボール(大会MVP)を受賞、世間からの注目を集めるようになる。以降、2011年女子ワールドカップ優勝、2012年ロンドン五輪準優勝を経験。2021年東京五輪では背番号10を背負うなど、なでしこジャパンを長く牽引した。国際Aマッチ通算90試合37得点。2021年6月に初著書『明るく 自分らしく』(KADOKAWA)を刊行。

© 株式会社 REAL SPORTS