14枚目のシングル「がんばりましょう」アイドル冬の時代を経て SMAP ついにブレイク!  第67回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)の入場行進曲「がんばりましょう」

デビューシングル「Can't Stop!! -Loving-」オリコン最高2位と健闘するも、セールスは15万枚…

物語は常に最悪のタイミングで始まる。

映画の話である。例えば、みんな大好き『ショーシャンクの空に』(監督:フランク・ダラボン)の冒頭―― ティム・ロビンス演ずる主人公・アンディは、浮気した妻と相手の男を射殺した罪に問われ、無実を訴えるも、終身刑でショーシャンク刑務所へ。冤罪だ。それは、彼にとって人生最悪の出来事だった。

手前味噌で恐縮だが、僕も原作協力したホイチョイ・ムービー『バブルへGO!!』(監督:馬場康夫)のファーストカットも、ヒロイン・真弓(広末涼子)の母・真理子(薬師丸ひろ子)の葬儀シーンだった。加えて、真弓は元カレの借金を背負い、借金取りに追われる日々。キャバクラで働くも、未だ日本経済は長い平成不況のトンネルの中にあった。

アメリカ映画協会(AFI)が選ぶ「感動の映画ベスト100」の第1位『素晴らしき哉、人生!』(監督:フランク・キャプラ)の冒頭も、主人公ジョージ・ベイリー(ジェームズ・スチュワート)はクリスマス・イブの夜、絶望の淵にいた。しかし―― 最後は劇的なハッピーエンドへ。これが映画である。そのリカバリーが大きければ大きいほど、観客の感動も大きい。

そう、ハッピーエンドの物語は大抵、最悪のタイミングで始まる。僕の人生訓でもある。それは、あのアイドルグループも同じだった。

時に、今から32年前の1991年9月9日―― シングル「Can't Stop!! -Loving-」でデビューしたSMAPだ。同曲はオリコン最高2位と健闘するも、セールスは15万枚に止まる。それは、80年代にデビューしたジャニーズ事務所の先輩たちと比べて、残念ながら大きく見劣りのする数字だった。

1988年4月、SMAP結成

最大の原因は、彼ら自身というより、タイミングにあった。当時はアイドル冬の時代。『ザ・ベストテン』(TBS系)などのゴールデンタイムの音楽番組は、『ミュージックステーション』(テレ朝系)を残して、軒並み終了。80年代に人気を博した『レッツゴーヤング』(NHK)や『ヤンヤン歌うスタジオ』(テレビ東京系)などのメジャーなアイドル番組も姿を消していた。つまり―― そもそも、アイドルが活躍できる場所がほとんどなかった。

そう、平成の大スターSMAPは、ある意味、どん底からのスタートだった。実際、デビュー前日に埼玉県所沢市の西武園ゆうえんちで行われたデビューイベントも、台風15号が接近するずぶ濡れの中、度々機材トラブルで電源が落ちる最悪のコンディションだった。

グループ結成は、そこからさかのぼること3年半前の1988年4月である。前年にデビューした “光GENJI” のバックで踊るジャニーズJr.の “スケートボーイズ” の12名から選抜された6人組だった。リーダーは中居正広で、彼と木村拓哉の2人が1972年生まれの16歳。稲垣吾郎と森且行がその1つ下で、草彅剛が更にその1つ下。最年少の香取慎吾は小学6年生だった。

森且行が、稲垣吾郎が、木村拓哉がドラマ出演で示した存在感

SMAPで最初にドラマの扉を開けたのは、森クン(森且行)だった。グループ結成から半年後には、『3年B組金八先生』(TBS系)の第3シリーズに生徒役で出演。更に翌89年には、『ツヨシしっかりしなさい』(日本テレビ系)でドラマ初主演も。こちらは当初、高橋良明主演の予定だったが、放送開始1ヶ月前にバイク事故で彼が急死。急遽代役で抜擢された。

メンバーで最初にブレイクしたのは、吾郎ちゃん(稲垣吾郎)だった。1989年、NHKの朝ドラ『青春家族』でヒロインの弟役を演じて脚光。92年にはフジテレビの月9(ゲツク)『二十歳の約束』にて、ドラマ初主演も果たした。93年には、『プライベート・レッスン』(監督:和泉聖治)で映画初主演と、同映画の主題歌「If You Give Your Heart」でソロデビューも――。当時、SMAPと言えば、稲垣吾郎だった。

その頃、キムタク(木村拓哉)は何をしていたかと言うと―― 1989年、作:唐十郎、演出:蜷川幸雄の舞台『盲導犬』に、“フーテン少年役” で桃井かおりと共演。ここで演劇の鬼・蜷川サンにしごかれ、役者魂が開眼する。90年には幸田文原作のドラマ『おとうと』(TBS系)で斉藤由貴サンの弟役を、91年には事故で四肢麻痺になるラグビー部員を描いたドラマ『松葉杖のラガーマン』(TBS系)で初の主演を射止めるなど、こちらは単発ドラマで地味に存在感を示していた。

3人とも、アイドル冬の時代ながら、役者という鉱脈を見つけ、着実に実績を積んでいた。80年代のジャニーズ・アイドルが田原俊彦を除けば、役者として大きくハネなかったことを思えば、それは大健闘だった。

中居正広が、香取慎吾が、草彅剛が身に着けた “タレントのスキル”

一方、そんなドラマづいた3人とは対照的に、中居正広・香取慎吾・草彅剛の3人がソロで活躍するのは、もう少し後の話になる。ちなみに、彼らが “バラエティ班” を自認し、『笑っていいとも』(フジテレビ系)のレギュラーに起用されるのは1994年以降。そのキッカケを作ったのが―― あの敏腕女性マネージャーだった。

―― そう、今や「新しい地図」を牽引する飯島三智サンである。当時、デビュー曲でロケットスタートとならなかったSMAPは、2曲目以降のシングルも右肩下がりでセールスを落としていた。ジャニーズ事務所も彼らをどう売り出したらいいか、考えあぐねていた。そこへ、自らSMAPのマネージャーに志願したのが、同社事務職員(当時)の飯島サンだった。彼女には腹案があった。それが―― バラエティへの進出である。

彼女の考えは、逆転の発想だった。アイドルが活躍できる番組がないのなら、いっそアイドルの衣を脱ぎ捨て、6人にはメジャーなバラエティ番組でも見劣りしない “タレントのスキル” を身に付けさせよう―― と。

1992年4月、彼女の尽力が実り、SMAPは新番組『夢がMORI MORI』(フジテレビ系)へのレギュラー出演を果たす。それは、松下電器(現:パナソニック)の一社提供枠で、かつてダウンタウンやウッチャンナンチャンらが出演した『夢で逢えたら』の後継番組。若者の視聴が期待できるメジャーな枠だった。司会は森口博子と森脇健児―― 2人の森で “MORI MORI”。他に、 森川美穂や森川正太、森末慎二など、名前に「森」が付くタレントばかりが集められた。

そして、SMSPにも―― “森” 且行がいた。ドラマにしろ、バラエティにしろ、SMAPが新しい世界に挑むとき、森クンが先導役で果たした役割は少なくない。同番組は、「スーパーキックベース」と「音松くん」の2つのコーナーで構成され、森クンはその両方に出演して大活躍した。

スーパーキックベースと音松くん。「夢がMORI MORI」で大活躍!

さて――「音松くん」は、SMAPが初めて挑戦した本格的なシットコムだった。メンバーは6人兄弟の設定で、色分けした名前と個性的なキャラを与えられた。

中居 青春熱血体育会系の青松
木村 真赤な薔薇を手に女性を魅了する赤松
稲垣 早熟で妄想大好きな桃松
森 白ぶちメガネの優等生・白松
草彅 カレー好きで、「~でインド」が口癖の黄松(きいまつ)
香取 自然が大好きで盆栽を手に持つ緑松(みどまつ)

―― 恐らく、多くの人がSMAPを知ったのは、同コーナーじゃないだろうか。かく言う僕もそう。最初は、アイドルが演じるコントと軽く見ていたが、次第に彼らの芸達者ぶりの虜になった。どこまでが台本で、どこからがアドリブか分からなかった。以前、ダウンタウンの松本サンが「漫才の肝は、いかに台本をアドリブっぽく見せられるか」と語っていたが、要は彼ら6人の腕が確かだったのだろう。

気が付けば、番組内のSMAPの存在感が回を追うごとに増していった。92年4月の番組開始以来、オープニングテーマは代々、森口博子サンが歌っていたが、初めてそのお鉢がSMAPに巡ってきた。1993年11月11日にリリースされた、彼らの10枚目のシングル「$10」である。

 Oh, lady! A-1 dollar B-2 dollars
 淫ら No, no, no…
 僕のふところには僅かなMoney
 破産しそうな C-10 dollars

セールスは30万枚を突破。ファン以外にも届いたSMAPの楽曲「$10」

作詞:林田健司・森浩美、作曲:林田健司。元々は、林田サンご自身の持ち歌だったが、コンサートで度々、森クンが好んで同曲をソロで歌っていたことから、SMAPのシングルとして楽曲提供されることに――。そのダンサブルなナンバーはこれまで彼らがリリースした9枚のシングルと異なり、アグレッシブだった。既存のアイドルソングの枠を超え、時代と並走している感があった。

これが売れた。セールスは30万枚を突破。ファン以外にも届いたSMAPの楽曲と評された。テクニカル的には、過去の9枚と異なり、初めてキムタクと森クンのソロパートが設けられた。メンバーの中でも歌唱力に秀でた2人の歌唱はカッコよく、ビジュアルも目立った。ここへ至り、SMAPは初めて楽曲で正当に評価されたのである。思えば、これも扉を開けたのは森クンだった。

ドラマやバラエティなどに新機軸を求め、直接お茶の間に語りかけたSMAP

気が付けば、SMAPは「新・黄金の6年間」の入口に立っていた。それは、バブル崩壊後の1993年から98年までの6年間、エンタメ界を中心に新しい才能たちが次々とビッグヒットを放った時代を指す。キーワードは「スモール」、「フロンティア」、「ポピュラリティ」―― 時代の主役たちは、比較的小回りの利くチームで動き、新しい開拓地を求め、直接大衆に語りかけた。

それをSMAPに当てはめると―― 6人はジャニーズ事務所に所属しながら、飯島マネージャーの小部隊で動き、アイドルのフォーマットに捉われず、ドラマやバラエティなどに新機軸を求め、アイドルファンに限らず、直接お茶の間に語りかけた。

今なおSMAPの最高傑作、「がんばりましょう」

そう、それはSMAPが「新・黄金の6年間」という大海へ漕ぎ出した瞬間だった。そのベクトルは、やがて彼ら自身を時代の檜舞台へと押し上げる。それを決定づけた運命の楽曲こそ、今回のメインテーマだ。時に、デビューから丸3年目となる1994年9月9日―― まさに29年前の今日、リリースされた彼らの14枚目のシングル「がんばりましょう」である。

 かっこいいゴールなんてさ
 あッとゆーまにおしまい
 星はひゅるっと消えていた
 また別の朝だった

作詞:小倉めぐみ、作曲:庄野賢一。「Hey Hey おおきに毎度あり」に続く、SMAPの2作目となるオリコンシングル1位を獲得。セールスは70万枚を超え、彼らにとって初のダブルプラチナとなった。「$10」に続いて、再び木村・森のツインボーカル体制となり、今度の歌い出しは森クンだった。

楽曲はソウルフルなテイストで、洋楽からのサンプリングも多用。J-POPながら、アイドルチックな要素もほんの少し加味した、SMAPにしか歌えない珠玉のナンバーに仕上がった。6人のダンスも同曲が最もスピーディーで、特に間奏時のクオリティが高い。個人的には曲・詞・歌・ダンスとも、今なおSMAPの最高傑作だと思う。

1995年1月17日、阪神・淡路大震災発生。その2ヶ月後、同曲は第67回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ)の入場行進曲に採用された。

カタリベ: 指南役

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