「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩

「人殺しの息子」と石を投げられ16歳でホームレスに…「加害者家族」として差別され続けた男性の23年間の苦悩とは

毎日、どこかで起きている様々な犯罪。加害者が罪を償うのは当然のことですが、同時に加害者の家族が差別や嫌がらせなどの被害に遭っているという現実があります。

「加害者の息子」として、そして同時に母親を殺された被害者として生きて来た男性の、20年以上にわたる苦悩と現実に密着しました。

父親が母親を殺害「人殺しの息子」として社会から排除される日々

愛知県に住む大山寛人さん(35歳)の両腕には、刺青が入っています。右腕には、女性の生首の絵と、母親の名前の一字を取った「美」という文字。そして左腕には「野ざらし」という罪人が首をはねられて朽ちて骨になった絵と、父親の名前の一字を取った「清」の文字が入っています。

今から23年前の2000年3月、寛人さんが小学6年生の時に父親の大山清隆死刑囚は、保険金目当てに妻の博美さんを自宅の風呂で殺害しました。

殺害当日の夜、“家族で夜釣りに行き、海で溺れ死んだ”ように見せかけるため、大山清隆死刑囚は何も知らない寛人さんを連れて車で港へ。助手席に博美さんの遺体をのせ、寛人さんには「母親は寝ている」と説明していました。その後、海で母親の遺体が見つかり溺死とされますが、その2年後、寛人さんが中学2年の時に父親が逮捕されます。その時初めて母親が殺されていたことを知ったといいます。

(大山寛人さん)
「頭が真っ白になり何も考えられなくなって、泣きわめくことしかできなかった」

幸せだった家族は全員いなくなり、寛人さんの人生は大きく狂っていきます。

(大山寛人さん)
「(友達の)親御さんが『大山君の家とは関わっちゃだめだよ』と。そこからドンドン友達が離れてしまった」

周りから「人殺しの息子」というレッテルを貼られ、排除されていく恐怖。寛人さんはいじめを恐れるあまり、窃盗や暴走行為など非行に走るようになりました。

16歳でホームレスに、就職後も止まらない“世間からのバッシング”

当時、寛人さんは暮らしていた児童養護施設でどのような生活をしていたのでしょうか。

(大山寛人さん)
「(施設の職員が)僕にたばこを渡して、たばこを吸わせてくれた。向こうの言い分としては、『たばこを吸わせてやるからおとなしくしていてくれ』と。当時、本当に僕に必要だったのは、たばこでも勉強でもなく、優しく手を差し伸べてくれる、安心させてくれる大人の存在だったと今となっては思います。ただ当時、そういった大人は僕の周りにはいませんでした」

高校を3日で中退すると施設からも追い出され、16歳でホームレスに。寝泊まりしていたのは公園のトイレの個室でした。友達からもらったバスタオルを床に敷いていましたが、冬になるととても寒かったといいます。

(大山寛人さん)
「友達はみんな帰る家があるにもかかわらず、僕の帰る場所はここ(公園のトイレ)にしかなかった。悲しさや寂しさで心がつぶされたことはよくあった」

2011年、最高裁で父親の死刑が確定しました。寛人さんが働きだすと、勤務先に「人殺しの息子だ」という電話が入って解雇されてしまうなど、世間のバッシングは止みませんでした。今は、風俗業界で働いていますが心から安心できる場所はないといいます。

(大山寛人さん)
「ここは自宅ではなく、僕がダミーで借りている家になります。住民票を置くためだけに借りている部屋です」

実際に暮らしている場所は明らかにしていません。自宅の住所(住民票)を置いている場所がばれて、その家自体に嫌がらせをされたり、「人殺しの息子」といった差別的な用語が書かれた張り紙を貼られたりすることがよくあったからです。

“家族連帯責任”という刷り込み…「加害者家族は加害者ではない」

差別を受けることが多い犯罪加害者の家族。その支援に長年取り組んでいるのが、宮城県仙台市にあるNPO法人World Open Heartの阿部恭子理事長です。15年前から加害者家族の相談に乗り、2500件以上の声を聞いてきました。

寄せられたメッセージには「インターホンや、電話の音が怖い」「何かあるとパニック状態になってしまう」など、悲痛な叫びが綴られていました。

(NPO法人World Open Heart・阿部恭子理事長)
「日本人の感覚で、家族連帯責任という刷り込みがすごいと思う。加害者家族はあくまで加害者ではない。『日常生活を送る権利がある』そのように助言しています」

寛人さんは今も年に数回、故郷の広島にある母親の墓参りをしています。心には、母親を助けられなかった罪悪感を今も抱いています。自分も連れてこられ、母親の遺体が捨てられた港にも毎回、線香をあげています。

(大山寛人さん)
「パトカーや救急車が入ってくる際、その赤色灯で港が真っ赤に染められて。あの光景というのは、現場に来るとより一層思い出します」

寛人さんは父親が死刑になった後、その遺灰はこの海にまきたいと考えています。広島拘置所の塀の向こうには、刑の執行を待つ父親がいます。

「一人の人間として生きていきたい」死刑執行を前に、父の手紙を焼却

父親の大山清隆死刑囚は、62歳。死刑確定から年月が経つ中、数年前に父親と話し合って手紙のやり取りも、面会もやめたといいます。

(大山寛人さん)
「(手紙や面会をやめれば)お互いの心の傷が少しでも浅くなるのではないか。(死刑の)執行が近くなった時には、手紙や面会のやり取りを控えようと(父親から)話があった」

これまで、父親とやりとりをした手紙は600通以上にのぼります。便せんには、寛人さんを気遣う言葉や、殺害した妻への謝罪の気持ちなどが綴られています。本心では父親に生きていてほしいという思いもありますが、「今後は一人の人間として生きていきたい」という思いを込めて、区切りをつけるためにも、自分の手で焼却処分をする事に決めました。

(大山寛人さん)
「本当に身近な助け合い一つで、変わるものだと僕は思う。(自分の訴えで)差別の実態というものを知ってもらって、数あるうちのほんの一つかもしれないが、差別を行う人々の考えが変わることにつながればと思う」

「人殺しの息子」と石を投げられ、ひとときも安心できなかった23年間。加害者家族への差別の実態を、社会に問い続けています。

CBCテレビ「チャント!」9月4日放送より

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