蘆花健次郎旧宅【駅ぶら】06京王電鉄 京王線056

※2023年5月撮影

トップ画像は、蘆花恒春園、徳冨蘆花健次郎旧宅母屋。

『みみずのたはこと』にはこの家を蘆花健次郎が最初に見に行った時のことが書かれています。

「最後に見たのが粕谷の地所で、一反五畝余。小高く、一寸見晴らしがよかった。風に吹飛ばされぬようはりがねで白樫の木にしばりつけた土間共十五坪の汚ない草葺の家が附いて居る。〈中略〉家は隣字の大工の有であった。其大工の妾とやらが子供と棲んで居た。」同書上巻p.34

今でこそ巨木に囲まれた蘆花健次郎旧宅ですが、1907年(明治40年)に彼等が越してきた時は小高い丘に立つ吹き曝しの小さな家だったのです。

母屋出入口。9:00~16:00入館無料。撮影禁止となっています。

※2023年5月撮影

戸口に「茅屋(ぼうおく)」という文章が掲げられています。これは『みみずのたはこと』の文章ではありません。写します。

「僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ、其筈(そのはず)さ、先の家主なる者は素性知れぬ捨子で、赤子の時村に拾はれ、三つの時に人に貰はれ、二十いくつの時養家から建てて貰った家だもの。其あとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。即ち妾宅さ。投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、ちと真剣に降ると黄ろい雨が漏る。越してきたのは去年の此頃(明治四十年二月末日指す)雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方から押寄せて来る武蔵野の春寒、中々春寒料峭(しゅんかんりょうしょう)位の話ぢやない。

國木田哲夫兄に興へて僕の近況を報ずる書「二十八人集」より」

この内容は『みみずのたはこと』上巻の「腫物」(p.70~81)に詳しく書かれています。

現在は撮影禁止ですが、筆者が2003年(平成15年)に来た時には、特にその様な注意書きは無かったと思います。20年前は、SNSなどに個人が写真を投稿することが流行っていなかった時代でした。

その時に撮った写真。土間の「竈(へっつい)」。

※2003年3月撮影

「梅花書屋」の額がかかった部屋。

※2003年3月撮影

他にもまだありますがこの位にしておきます。弟と二人で書院の畳に座って「ここで読書会でもしよ~か」などと話していた時の写真など。偶然ですが句会などで貸切になっていたことがありました。現在この様な賃貸は旧愛子夫人邸の様です。東京都公園協会の案内をご覧ください。

蘆花健次郎と奥様の墓地の方に行きます。これは出てきた母屋をふり返って。

※2023年5月撮影

奥に徳冨夫妻の墓が見えます。

※2023年5月撮影

蘆花健次郎の兄、徳冨猪一郎蘇峯が書いた蘆花健次郎と愛子夫人の墓誌が石板に刻まれ墓に納められています。

※2023年5月撮影

蘆花健次郎は自ら「粕谷の墓守」と書いています。

「彼が家の一番近い隣は墓場である。門から唯三十歩、南へ下ると最早墓地だ。『みみずのたはこと』上巻p.239「墓守」

※2023年5月撮影

「墓地は約一反余、東西に長く、後は雑木林、南は細い里道から一段低い畑田圃。入口は西にあって、墓は〇(字がありません)形に並んで居る。古い処で寛文元禄位〈後略〉」『みみずのたはこと』上巻p.241「墓守」

蘆花健次郎の千歳村粕谷での「美的百姓」生活のきっかけを作った千歳教会堂下曽根信守牧師のお墓がありました。横は世田谷区教育委員会による案内。下曽根信守牧師は『みみずのたはこと』にも度々登場しています。

※2023年5月撮影

では広大な公園区域を少し歩きましょう。

※2023年5月撮影

次回は公園散歩です。

(写真・文/住田至朗)

※駅構内などは京王電鉄さんの許可をいただいて撮影しています。

※鉄道撮影は鉄道会社と利用者・関係者等のご厚意で撮らせていただいているものです。ありがとうございます。

※参照資料

・『京王ハンドブック2022』(京王電鉄株式会社広報部/2022)

・京王グループホームページ「京王電鉄50年史」他

下記の2冊は主に古い写真など「時代の空気感」を参考にいたしました

・『京王電鉄昭和~平成の記録』(辻良樹/アルファベータブックス/2023)

・『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢嶋秀一/アルファベータブックス/2016)

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