シベリア抑留から生還、記憶つないだ戦争語り部の実業家97歳で死去 飢え、凍傷、戦友の死…孫らが映像に記録

与田治郎右衛門さんがシベリア抑留中に作ったシラカバのトランプを見ながら、生前をしのぶ家族たち=豊岡市幸町

 第2次世界大戦後のシベリア抑留から生還し、戦争体験の語り部として活動した兵庫県豊岡市の実業家、与田治郎右衛門さんが8月上旬、97歳で亡くなった。多くの戦友の死に接し、自らも3度、死線を越えた。長く体験を公にせずにいたが、孫2人の「経験を記録として残したい」との熱意に押されて語るようになった。生涯現役を貫き、住宅設備業と不動産業で地域を支えつつ、戦地での出来事を伝え続けた。(阿部江利)

 与田さんは1925(大正14)年生まれ。旧制中学を卒業後に上海の日本大使館に勤務し、44(昭和19)年に徴兵検査を受け、45年に満州(中国東北部)の部隊に配属された。終戦後は約2年間、シベリアの収容所で強制労働を強いられた後に帰郷。さまざまな事業を手がけ、灯油ボイラーの販売業を軌道に乗せ、江戸時代から続く「元庄屋」の屋号を継いだ。

 与田さんが80代後半のころ、当時、大学や大学院で映像制作などを学んでいた孫の祐太朗さん(31)、晃弘さん(27)が、祖父の戦争経験をもとにしたドキュメンタリー映像をそれぞれ制作。「体験を身内だけにとどめてはいけない」とウェブ上での発信を始め、与田さん自身も積極的に語るようになったという。

     ◆

 与田さんは戦地やシベリアで3度、生死の危機に直面した。ソ連軍の戦車に自爆攻撃を仕かける作戦に従事した時には、ダイナマイトを抱いて1人用の塹壕(ざんごう)に潜んでいる横で、戦車に近かった戦友が塹壕から飛び出し、爆死した。土煙の中から何事もなかったように出てくる戦車を目にし、当時は恐怖より悔しさが勝ったと話していた。

 敗走中には、密林の中でソ連軍の一斉掃射を受け、一緒にいた30人のうち23人が亡くなった。隣の戦友が撃たれた弾みで与田さんにぶつかり、くぼみに落ちたことで敵の死角に入った。林の中ではカタツムリを食べ、命をつないだ。

 その後に捕虜となり、シベリア抑留中には凍傷で中指の先端を失った。夜に隣で寝ていた戦友は、郷土料理の話をして間もなく息を引き取り、翌朝に埋葬した。自らも栄養失調で意識を失い、死線をさまよった。

 抑留中、シラカバの樹皮をはいで作ったトランプは、今も大事に保管されている。帰国時に持ち物は全て没収されたが、収容所の職員が「にやっと笑って」返してくれたという。

     ◆

 存命中に残した記録は、動画だけでも数十時間に及ぶ。戦争体験に限らず、長寿の健康法など多岐にわたる。収録は2012年に始まり、今年6月の収録が最後になった。豊岡市日高町の神鍋高原であったキャベツ祭りの様子を見て、抑留前にキャベツを丸かじりした記憶がよみがえり、急きょカメラを回した。

 与田さんはしばしば、「若い世代に、戦争を大いに議論してもらうことは良いことだ」と話していた。ただ、「今を生きる人のものさしでは当時の感覚は到底理解できない。先入観を捨て、まず当時を知ることから始めてほしい」とも強調。苦労したはずだが、「今の若者は大変な時代を懸命に生きていて立派だ」とねぎらっていた。

 祐太朗さん、晃弘さんは「孫世代の距離感や時間の経過が、重い口を開かせたのか。存在の大きさや喪失を痛感している」とし、「完全な語り部は引き継げないが、私たちは祖父が残してくれた声を途切れさせない役割を負っている」と話す。今後、残された資料や動画などの編集を続けるという。

© 株式会社神戸新聞社