史上最高のサッカー選手ベスト10 (2023年最新版)

近年のサッカー界でトップに君臨してきたリオネル・メッシとクリスティアーノ・ロナウドは、キャリアの晩年に差し掛かってきた。

ここでは、『FourFourTwo』による「史上最高のサッカー選手TOP100」の上位10人を見てみよう。

10位 ジョージ・ベスト

ベストの類まれな天賦の才は、彼を最も象徴的でエンターテインメント性の高い選手にしただけでなく、ブリテン諸島史上の最高の選手にもした。

「もし俺がブサイクだったら、ペレなんて聞いたこともなかっただろう」。それは言い過ぎかもしれないが、その能力の高さにもかかわらず、女好きの性格がそれ以上の成功を妨げていたことを自ら認めていたのだ。

ベストがバロンドールを勝ち取ったのは22歳だった1968年のこと。スピード、自信、テクニック、バランス、創造性が完璧に調和していた彼は、ユナイテッドの「三位一体」の他の2人(ボビー・チャールトンとデニス・ロー)に続いて栄誉に輝いた。

そんな彼がユナイテッドでデビューしたは1963年。ウルヴスファンだったベルファストの少年は、小さすぎることを理由に地元クラブから拒絶された。だが、すぐさま英国サッカー界で旋風を巻き起こしたため、それは素晴らしい決断ではなかった。

本人がクラブでのベストパフォーマンスとしてあげたのは、1966年のヨーロピアンカップでのベンフィカ戦。「12分で2ゴールを決めた」彼を、ポルトガルメディアは“5人目のビートルズ”と呼んだ。

2年後の決勝戦ではベンフィカ相手にゴールを奪い、ユナイテッドに優勝をもたらした。53試合で32ゴールを決めて、バロンドールだけでなく、史上最年少でFWA Footballer of the Yearも受賞した。

5年連続でユナイテッドのチーム内得点王になると、1970年のFAカップでは記録的なダブルハットトリックを達成。だが、ピッチ外の気晴らしが影響を及ぼし始めると、彼を中心としたチームは低迷する。

27歳でユナイテッドを去ると、その後は、多くのクラブを渡り歩いた。

「フットボールを裏ページから1ページ目に持ってきたのは自分だ」と自らのキャリアを振り返ったベストは、両方を支配するスター性があった。

9位 ロナウド

剃髪ですきっ歯だった彼の地位は、偉人たちの殿堂のなかでも揺るぎないものになっている。

20歳だった1996年にFIFA年間最優秀選手賞を初受賞すると、史上2人目となる3度の受賞を達成。バロンドールも2度勝ち取ると、2006年にはW杯史上最多得点者にもなった(2014年にミロスラフ・クローゼが記録更新)。

彼がバルセロナで飾ったデビューイヤーほど印象的なものはこの世にないだろう。

1996-97シーズンに51試合で47ゴールを叩き出し、リーガでは惜しくも2位で優勝を逃したが、コパ・デル・レイとUEFAカップウィナーズカップで優勝を飾った。

ただ、1997年に彼はインテルと契約したためにバルサは長く留めることができず。

スター扱いされた1998年W杯では得点王になったが、大会の最後はプラン通りにはならず。フランスとの決勝前に体調を崩してしまい、チームも0-3で敗戦。

その後、レアル・マドリーと契約し、銀河系の一人として絶頂期の片りんを見せた。

ただ、完全に元の姿に戻ることはなく、ゴールは決め続けたものの、ルーズな生活と壊れやすい膝のせいでプレースタイルの変更を余儀なくされ、2011年に引退。

8位 アルフレド・ディ・ステファノ

「あいつは誰だ?ピッチ上のどこにいても、ボールを奪えるポジションにいる。起きること全てに影響力があるのが分かる」。

これは1957年にレアル・マドリーでプレーするディ・ステファノの見たボビー・チャールトンの言葉だ。

ジョージ・ベストやディエゴ・マラドーナほどの天賦の才はなかったかもしれないが、チャールトンやフランツ・ベッケンバウアーらは、ディ・ステファノがサッカーを美しいものにした史上最高のオールラウンド選手だったかもしれないと話している。

レアルは彼の獲得をめぐって宿敵バルセロナと徹底交戦。スペインサッカー連盟はディ・ステファノをシェアすることを提案したほどだった。

レアルでプレーすることになった彼は11シーズンで282試合で218ゴールを記録。8度のリーグ優勝にヨーロピアンカップ5連覇を成し遂げた。当然ながら、5度の決勝全てゴールを決めている。

1958-59シーズンのリーガ最終節、得点数で並んでいたフェレンツ・プシュカーシュは自分でゴールするのではなく彼にパスを出した。それでも、プシュカーシュはこう述べている。

「ディ・ステファノが史上最高の選手であり、これからもそうだ」。

7位 フランツ・ベッケンバウアー

多くの偉大な選手と同じように、彼も複数のポジションでプレーすることに優れていた。

元々はセンターフォワードだったが、左ウイングとしてバイエルンでデビュー。最初のシーズンでバイエルンは創設されたばかりのブンデスリーガへの昇格を勝ちとる。ユース上がりの彼が開花するにつれて、バイエルンは徐々に西ドイツサッカー界で支配的な存在になっていった。

そんな彼に「カイザー(皇帝)」の称号が与えられた経緯については2つの説がある。

1968年に元オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの胸像の横でポーズをとり、その後、メディアが彼をサッカー界のカイザーと呼んだためというもの。

あるいは、1969年のドイツカップ決勝で“ヴェストファーレンの王”として知られたシャルケのラインハルト・リブダにファウルしたことで、メディアがベッケンバウアーの勝ちを確信したというもの。

いずれにせよ、この高貴な呼び名はまさにふさわしいものだった。

バイエルンでは1971~1974にブンデス3連覇達成し、1973~1976にかけてヨーロピアンカップでも3連覇を達成。代表では西ドイツ代表のキャプテンとして、1972年の欧州選手権(EURO)と1974年のW杯で優勝を成し遂げた。

バイエルンと同様に彼も誰からも愛されたわけではなく、ブンデスリーガのアウェイゲームで自分たちに向けられた攻撃性にショックを受けることも多かったと明かしている。

18歳の時には妊娠中の恋人との結婚を拒否して、西ドイツのユース代表から追放されたことも。物議を醸したが、1977年にニューヨーク・コスモスへ移籍した後は代表に選ばれなくなった。

カイザーは1980年代初頭にブンデスリーガに戻ってくると、ハンブルクをリーグ優勝に導いた。当然だ。彼は生まれながらの勝者だった。

6位 ジネディーヌ・ジダン

サッカー界には、最もクリエイティブなタレントは、最も効率が悪いという通念がある。そのスタイルは犠牲を伴う。それがラグジュアリーな選手の考えだ。

ジダンはありうる限りで最もラグジュアリーな選手だったが、勝負強さも兼ね備えていた。

うっとりするようなテクニック、優雅さ、競争心、その瞬間を見逃さない尋常ではない能力。

基本的な役割は円滑化と創造であり、得点を量産するタイプとは程遠かったが、驚異的な決定力があった。2度のW杯決勝でのゴールと2002年のCL決勝での衝撃ゴールがそれを証明している。

ただ、彼は生産的だったかもしれないが、常に芸術家の仕事を見ているような感覚があった。

大半のスポーツ選手は、輝くメダルのために美学や贅沢を犠牲にして、成功をもたらす可能性の高いことを中心に自分のプレーを組み立てる。

ジダンにとって、そういった妥協は邪道だった。成功はピッチ上での美しさから派生する必然的な結果にすぎなかった。

5位 ヨハン・クライフ

アヤックスでトップチームデビューした2カ月後、クライフは元体育教師リヌス・ミケルスと出会う。そして、ふたりはトータルフットボールを考案した。

ウイングとオーバーラップするサイドバックが幅をとり、(MFがスペースをカバーするために下がって来るなら)DFは後ろからボールを持ち出すことを奨励される。

そして、センターフォワード(通常はクライフ)はミケルス監督のピッチ上の指揮者として自由に動き回ることができた。それがハマったのだ。

クライフは、ある選手の反乱によりバルセロナに追放されるまで、1971~1973年にヨーロピアンカップ3連覇を成し遂げるなど、20の主要な栄誉を手にした。

ひとつのクラブ(アヤックス)に革命を起こしただけでは飽き足らず、“救世主”は再び革命を起こす。バルセロナに14年ぶりのリーガ優勝をもたらしたのだ。そのスピード、ビジョン、ゴール嗅覚には誰も敵わなかった。

1974年ワールドカップでは、優勝できなかった史上最高のチームの一員だった。クライフは代表チームではピークに達しなかったかもしれないが、それも彼の魅力をさらに高めている。

1978年に31歳で引退すると、同年のワールドカップ出場を拒んだ。だが、カタルーニャの養豚場事業で財産のほとんどを失った彼は翌年に現役復帰。アメリカでプレーした後、古巣アヤックスに復帰すると、宿敵であるフェイエノールトでもプレーした。

偉大なバレエダンサーだったルドルフ・ヌレエフの長年の相棒でクライフの親友でもあったルディ・ファン・ダンツィヒはこんな話をしている。

「クライフは常にコントロールしているように見えた。物事を実現させた。彼にはとてもドラマチックなところがあった。ギリシャドラマのように生きるか死ぬかのような。普段のオランダリーグでプレーしていた時でさえもね」。

4位 クリスティアーノ・ロナウド

昨年末のW杯でメッシ擁するアルゼンチンがサウジアラビアとの初戦で衝撃的な敗戦を喫した2日後、ロナウドは史上初めて5大会連続ゴールを決めた選手になった。

彼はそれがメッシよりも永遠に上に立つためのスタートになることを期待していた。だが、数週間のうちに事態は取り返しのつかないことになってしまった。

メッシがW杯優勝に到達した一方、ロナウドはスタメン落ちするとポルトガルはモロッコ戦で敗退。そして、物議を醸すインタビューでマンチェスター・ユナイテッドとの関係が崩壊すると、欧州のトップクラブからも見放されたかに思われた。

その後、サウジアラビアのアル・ナスルに移籍した際には「南アフリカに来たからといって、自分のキャリアが終わるわけではない」と発言。昨季の平均観客数が8000人だった新天地のクラブに全く興奮していないことがバレるような古典的なロビーニョ的失言だった(2008年、ロビーニョはレアル・マドリーからマンチェスター・シティに移籍した際、「チェルシーではなくマンチェスターだった。すまない」と言い間違いを謝罪)。

「欧州での仕事は終わった」とロナウドは自己弁護を続けたが、実際にはその逆で欧州が彼に見切りをつけたという疑いをかわすのは難しいことだった。

どんな選手もやがては終わりを迎えるが、全てが完璧な結末になるわけではない。ジダンはレッドカードで文字通りサッカーから去っていったし、マラドーナは晩年に薬物による出場停止を科された。

一方、37歳のロナウドは加齢に抗う並外れた仕事ぶりを見せている(現在は38歳)。30歳を越えてから代表戦で66ゴールを追加し、新たな代表得点記録を樹立。CLでの得点数も140に達した。

この数か月は、とてつもないモチベーションに動きが追い付かなくなっており、かつてのようにいかないことやもう二度と戻ることがないことに苛立ちを見せている。

これほど長い間、偉大な選手だったならば、かつての栄光を取り戻すという夢を諦めるのは簡単なことではない。

バロンドール受賞とCL優勝をそれぞれ5度も成し遂げた選手なのだ。キャプテンとしてポルトガル代表をEURO優勝に導き、4度の欧州ゴールデンシューを獲得し、レアル・マドリーの歴代最多得点者にもなった。メッシさえもバルセロナでできなかった6年連続50ゴール以上も記録している。

いま、ロナウドのことをカタール(2022年W杯)での出来事を考えずに見るのは難しい。

最大のライバルであるメッシがトロフィーを掲げて永遠の覇権を手にした一方、ロナウドは涙ながらにロッカールームへと続く道をひきあげていった。

とはいえ、ロナウドは人生の半分以上をスーパースターとして過ごしてきたし、史上最高選手のひとりでもあった。これほど長くトップに君臨した選手は誰一人としていない。

3位 ディエゴ・マラドーナ

史上最高の3人をどうやって区別するか…全員がそれに値するが、ひとりしか選べないのだ。

長命、ゴール数、トロフィーの数なら、メッシとペレがわずかに上回っているが、マラドーナはエキサイティングだった。

このアルゼンチン人は、史上最も偉大なW杯優勝かもしれない1986年大会で史上最も象徴的かもしれない個人技でのゴールを決めた。母国でもナポリでも神格化されている男だ。

身長170cmほどだった彼は15歳でアルヘンティノス・ジュニオルスにデビューするとファーストタッチで股抜きをした瞬間からそのドリブルテクニックで世代を超えて人々を魅了した。

166試合で116ゴールを決めると、ボカに移籍した後には宿敵リーベル戦で独力ゴールを決めてリーグ優勝をもたらした。

その数か月後に500万ポンドでバルセロナに引き抜かれると、ベルナベウでレアル・マドリーをズタズタにした。その後は怪我と病に苦しむも、1984年に690万ポンドでナポリへ移籍。世界最高額の移籍金で2度移籍した初の選手になった。

そして、絶頂期がやってくる。1986年W杯で優勝を成し遂げると、ナポリにもタイトルをもたらした。そして、1990年のW杯では再び決勝まで勝ち進んだ。

ヨーロピアンカップでは一度も優勝できなかったし、ベスト16以上に勝ち進んだことすらなかった。だが、マラドーナは単なるトロフィー以上の存在だった。

2位 ペレ

1958年W杯で当時17歳だったペレは決勝戦に出場した最年少選手になった。

この大会では準決勝でのハットトリック、決勝での2ゴールなど、計6ゴールを記録。W杯優勝を成し遂げ、トロフィーを母国に持ち帰った。それは通算3度成し遂げるW杯制覇のうち最初のもので、父の顔を伝った涙に答えるものでもあった。

連覇した1962年大会は怪我のために貢献は限られることになり、1966年大会は執拗なファウルに晒されたことで最後のW杯にすると心に誓った(1966年はグループステージ敗退)。

だが、彼はそれに固執しなかった。1970年大会で戻ってきたペレは4大会目の出場を果たすと、トスタンリヴェリーノ、ジャイルジーニョらとともに史上最高の攻撃陣を形成。4ゴールを決めて、3度目の優勝を遂げた。

1960~70年代には所属クラブのサントスとともに世界中を飛び回った。ナイジェリアではペレのプレーを見るためにビアフラとの戦争が2日間休戦になったほど。

ペレがナイジェリアのサッカー精神に与えた影響は大きく、彼が90年代以前にアフリカの国がW杯で優勝すると予言したとき、地元ファンはすでにそれが実現すると感じていた(まだアフリカが優勝したことはない)。

元チームメイトは「ある国の人達は彼に触れたがり、またある国では彼にキスをしたがった。 別の人たちは、彼が歩いた地面にさえキスした」と証言している。

1974年にサントスでのラストゲームをプレーしたペレは、引退の計画を遅らせてニューヨーク・コスモスと契約。彼には負債があり、経済状況を立て直すのに躍起だったため、北米への移籍を選んだのだった。

1977年にコスモスをリーグ優勝に導いた後、雨のニューヨークで引退試合をプレー。だが、それまでに彼がどれほど多くの日を輝かせたことか。

1位 リオネル・メッシ

歴史書はメッシを賞賛するだろうが、書物には限界がある。

20年後、若いサッカーファンたちはその輝きで世界を驚かせ、数々の記録を打ち破り、時代を支配した救世主のような人物について読むだろう。だが、映像を見ることで、初めて自分たちが逃したものを理解するはずだ。

彼の得点数はその美しさに比べると見劣りする。独走シュート、曲げたフリーキック、小粋なループシュート、ミサイルような弾丸シュートなど…。月間ベストゴール程度なら彼のトップゴール20にも入らないかもしれない。

いまやほとんどの人が彼の物語を知っている。

成長ホルモン欠乏症のための高価な薬が、彼を故郷ロサリオからバルセロナへと導き、2004年のデビューから輝かしい時代が始まった。世界最高のトップ3には10年間、トップ2には9年間選出されている。

頂点に立つことと、そこにとどまり続けることはまったく別だ。メッシが毎週のようには魅せてはくれなかった世界を知らない20代のファンもいる。

メッシは進化によってのみ、そのレベルを維持してきた。ゴリゴリのドリブラーは、今や成熟したプレーメーカーとなり、プレーの指揮しながら、ファイナルサードでは決定的なプレーを見せる。30代になったメッシほど、プレーメイク、ドリブル、得点力のバランスがとれた選手は存在しない。

ハビエル・マスケラーノが言ったように、メッシは3人の選手をひとりにしたような存在だ。彼のことを史上最高のゴールゲッターのひとりであり、最高のパサーでもあると主張できる。また、その主張を裏付ける証拠はいくらでもある。

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評論家、ファン、ライターたちは、彼の偉大さを言葉や比喩で表現しようとするだろう。いま読んでいる記事と同じように、それらはすべて失敗するはずだ。我々にできるのは、ジョゼップ・グアルディオラのこの言葉に耳を傾けること。

「彼について書くな。説明しようとするな。ただ彼を見ることだ」。

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