大河『家康』上洛を決意し秀吉と対面した本当の理由 大名としての家康の心意気 識者が語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第35話は「欲望の怪物」。豊臣秀吉(ムロツヨシ)の要請に応じ、遂に上洛を決意した徳川家康(松本潤)。両雄の対面が描かれました。秀吉は、自身の妹の旭姫を、正室として、家康に嫁がせると「すぐにも上洛を」と求めてきます。天正14年(1586)9月24日のことです。秀吉は、実母・大政所をも、家康のもと(三河国)に下向させる腹積もりでした。母と妹をある意味、「人質」として、差し出すことで、家康の心を軟化させて、上洛させようとしたのです。そして家康は、とうとう上洛の決断をします(9月26日)。

しかし、『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)には、主君の上洛に反対する重臣の姿が記されています。「上洛は道理に合いません。秀吉と断交しても構わないではありませんか」「上洛は納得いきません。ご再考を」と、対秀吉強硬派の家臣(例えば、酒井忠次)が家康に迫ったのです。

それに対する家康の答えは、大名・領主としての心意気に溢れたものでした。「私が上洛しなければ(秀吉と)断交となる。秀吉軍が大軍で攻め寄せてきても、合戦で討ち破ってみせるが、戦というものは、そういうものではない。私一人の決断で、民百姓や侍どもを、山野で死なせることは、その祟りこそ恐ろしい。私一人が腹を切り、多くの人を助ける」と、自分の身を犠牲にして、上洛する決意を家臣に披瀝したのです。

10月14日、家康は浜松を出立します。同18日には、秀吉の母・大政所が岡崎に到着。それを見届けて、家康は岡崎を立ちます(20日)。家康のこの行動を見ても、大政所の三河下向が、家康上洛に大きな影響を与えたことが分かります。もし、秀吉が約束を反故にして、大政所の下向を取り消していたら、家康は上洛しなかった可能性もあるでしょう。

ちなみに、大政所(なか)は、尾張国出身で、貧農の弥右衛門に嫁ぎ、秀吉やその弟・秀長、智・朝日の姉妹をもうけたと考えられています。秀吉が年少の頃に、実家を出たと思われますが、長じて後も、母のことを大事に想い、健康を気遣う手紙などを書いています。

さて、10月26日に、大坂に着いた家康は、羽柴秀長(秀吉の弟)の邸に入ります。家康の上洛を今か今かと待ちかねていた秀吉は、その夜、自ら家康の宿所を訪れ、もてなしたとされます。翌日、家康は大坂城に登城し、秀吉に拝謁。この時、家康は秀吉に陣羽織(戦場で具足の上に着用した上衣)を所望したといいます(『徳川実紀』)。今後は秀吉に陣羽織を着させない、つまりは、自ら(家康)が代わりに戦場に出向く決意のほどを表明したのです。

秀吉は大層喜び、陣羽織を家康に与えます。この陣羽織所望は、家康の発案のように思われますが、実は『徳川実紀』には、前日、羽柴秀長と浅野長政が「陣羽織をご所望あるべし」と家康にアドバイスしていることが記載されています。とにもかくにも、こうして、家康は秀吉に仕える「豊臣大名」となったのでした。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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