
【私の秘蔵写真】
山川健一さん
(70歳/作家・ロックミュージシャン)
バンド経験も豊富な作家の山川健一さんの秘蔵写真はシーナ&ロケッツのライブに出演した時のスナップ。ともにローリング・ストーンズ好きの鮎川誠さん(膵臓がんのため今年1月に逝去、享年74)との思い出を語る。
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下の写真は鮎川誠さんとシーナ(2015年逝去、享年61)の長女の鮎川陽子ちゃんがつい先日送ってくれたものです。「最近みつかったかっこいい写真、送ります!」とメールをくれて。
シーナ&ロケッツが1997年にインターネットライブを原宿で行った時のものです。
「ストーンズを一緒に演りたいから、ヤマケン来てよ」と誘われて行ったんです。ボーカルのシーナが女性でストーンズはできないから、鮎川さんがストーンズ演りたい時にしばしば呼ばれて、何本もライブを演っていたんです。僕と共著で「ローリング・ストーンズが大好きな僕たち」という本を出すくらい好きでしたから。
その日はまずシナロケが演奏した後に僕が入って、ミック・ジャガーのパートを歌い、シーナがコーラス。これはその日の店のどこかでの写真です。僕は44歳かな。シーナと僕は同い年で鮎川さんが5歳上。
97年にインターネットライブを演るくらいだから、鮎川さんはネットに取り組むのが早いミュージシャンでした。ネットでライブを配信した日本で最初のバンドかもしれない。
鮎川さんと初めて会ったのはまだ80年代。僕が自分のバンドを持って最初のCDを出した30代前半、シナロケが同じレコード会社でした。僕らのライブを新宿で演る時にレコード会社のつてで鮎川さんがゲスト出演してくれたのが最初かな。
その時、鮎川さんがアンプにつなぐとボリュームをマックスにして弾き始め僕は唖然。でも、そのライブで意気投合して付き合いが始まりました。鮎川さんの下北沢の自宅と僕の初台の仕事場を行き来するという、ロック好きの高校生の先輩後輩みたいな関係でしたね。
シナロケのライブ以外にも、鮎川さんと2人で都内の書店や地方のデパートの屋上をドサ回り的に回ったイベントも30本くらいやりました。互いのマネジャーが企画したんだと思います。ロックについてのトークをした後、僕がハーモニカとボーカル、鮎川さんがギターで簡単なライブ。終わるとその場でギャラをもらう、まるで芸人の営業みたい。
僕が「ライブハウスじゃないんだから、アコースティックギター持ってきなよ」と言っても、鮎川さんはいつもエレキのレスポールとアンプを持ってくる。しかも、爆音で弾く。仕方ないから僕も絶叫で歌う(笑)。
ストーンズは新アルバムが出ても、他のバンドのように業界人にサンプルを配らないけど、アルバムが「ダーティー・ワーク」(86年)の時かな、レコード会社の人が仕事場に持ってきて特別に聴かせてくれたんです。鮎川さんが「俺も聴きたい!」とシーナを連れて来たから、レコード会社の人も驚いちゃって。
で、鮎川さんと深刻な顔で一曲聴くたびにうなったりして。シーナには「いい大人がストーンズ一曲聴くたび一喜一憂すんな」と呆れられました。
アメリカのアトランティックシティーでのストーンズライブにも一緒に出かけ3日間見ました。初日、ライブの出来がよくなくて、ホテルに戻ってから僕が「ストーンズは終わった!」と嘆いたらシーナに叱られた。
「ストーンズは今まで何本のライブを演ってきたと思ってんの。1本のライブの出来がよくないからって、終わったとか言ってんじゃない」
■母親みたいな女性だったシーナさん
2日目、3日目は出来がよく、「ストーンズ最高!」と鮎川さんと手を取り合って喜んだらまたシーナに呆れられて。
鮎川宅に行くと大きな犬が走り回り、3人の娘さんがいて賑やか。よくコーヒーを飲みました。鮎川さんとストーンズの話ばかりしていると、シーナから「人のことはいいから、アンタたちは自分の音楽を演ればいいんだよ」と叱られた。彼女は素晴らしいボーカリストでありながら、母性を感じさせました。3人の娘の母だけでなく、鮎川さんにも友だちの僕にとっても母親みたいな女性でした。
亡くなる前のライブに行けなかったのが悔しい
ウィンドウズ95が発売になった後、鮎川さんはすぐシナロケのウェブを作成。僕は真似してサイトを作ったけど、なかなかうまくいかなくて。アップし終えた朝の4時に鮎川さんから電話がきたんです。
「ヤマケン、表示がおかしいから今から行って直してやる」
それで朝の5時にやって来てパソコンを操作して直してくれたこともあったな。
鮎川さんは病気を公表してなかったから僕も知らなくて。亡くなる前に、神田のライブハウスでライブを演った日、僕が編集長を務める大学付属の出版局でコロナ感染者が数人出たので、僕は感染してないけど行かなかったんです。でも、それを今はものすごく後悔してます。
私自身でいることがロックするってこと
鮎川さんではありませんが、3歳上のパンタさんとも僕は親しく、ライブに出てくれたり食事したりの仲でした。そのパンタさんも7月に亡くなってしまった。学生時代のダチみたいな仲だった鮎川さんとパンタさんが続けて逝ってしまい、立ち直れないですよ。
2人とも最期までライブを演り、死ぬまでロックしました。以前、鮎川さんに言われた一言をまだ覚えてます。
「ロックしようぜ! ってみんな言うけど、ロックには自分自身であり続けようぜって意味もあるんだよ」
だから、サラリーマンでも誰でも、私自身でいることがロックするってこと。
鮎川さんは陽子ちゃんを仕事場に連れてきたので、僕はずっと親しくしていました。陽子ちゃんはモデルで活動し、今は画家。最近、個展を開いた時に僕が気に入った絵を、7月発売の本の表紙に使わせてもらいました。両親に「娘さん、アーティストとして頑張ってるよ」という報告を兼ねて2人に捧げたつもりです。
今、映画「シーナ&ロケッツ 鮎川誠~ロックと家族の絆~」も話題。鮎川誠とシーナは家族と生きていくこと自体でロックしてました。そんなバンドは他にない。僕もこの先、ロックし続けたいと思います。
(聞き手=松野大介)
▽山川健一(やまかわ・けんいち) 1953年7月、千葉県出身。77年から作家活動。著書多数。現在、プロ作家を育てるオンラインサロン「私」物語化計画を主宰。「物語を作る魔法のルール 『私』を物語化して小説を書く方法」(藝術学舎、発売・幻冬舎)を出版。