‎チャンバって何だ?【キャプテン翼】が誕生してアニメ化されるまでの運命的ストーリー  国民的サッカー漫画「キャプテン翼」主題歌は「燃えてヒーロー」

キャプテン翼 “キャラクター人気投票” 1位は主人公・大空翼… ではない!?

人は主役より、ちょっと脇で光る人物の方に惹かれる。

例えば―― ブレイク前夜のSMAPのキムタク(木村拓哉)がそうだった。ドラマ『あすなろ白書』(フジテレビ系)で主役の掛居(筒井道隆)ではなく、その友人で脇役の取手を演じ、かの有名な―― なるみ(石田ひかり)を後ろから抱きしめて「俺じゃダメか?」と告白する “あすなろ抱き” で一躍ブレイク。それは、世間に木村拓哉が見つかった瞬間だった。

かつて、AKB48の絶対的センター・前田敦子を「第2回選抜総選挙」で破り、初めてセンターに就いた2期生・大島優子もそうだった。思えば、その瞬間が同グループの人気の頂点だった。そんな “新センター” が歌った『ヘビーローテーション』が今もって同グループの代表曲であるのは、そういう理由である。

かの乃木坂46が本格的にブレイクしたのも―― 初期のセンター・生駒里奈に代わり、デビュー曲では3列目ながら、そこから徐々に序列を上げ、握手会人気ナンバーワンの実績で8枚目のシングル『気づいたら片想い』のセンターに抜擢された西野七瀬からだった気がする。その後、彼女はグループ最多となる7回ものセンターを経験する。

そう、人は主役より、ちょっと脇で光る人物の方に惹かれる。

それは、あの国民的サッカー漫画―― 1980年代に週刊少年ジャンプで連載され、アニメ化されて絶大な人気を博した『キャプテン翼』(作:高橋陽一)も同様だった。主人公・大空翼と “ゴールデンコンビ” を組んだチームメイトの岬太郎、その人である。時に、ジャンプ誌上で行われた同作品の「第3回キャラクター人気投票」において、彼は2連覇中の翼に代わり、見事1位に輝いたのだ。

“キャプ翼” 女性ファンの8割は岬太郎ファン!

岬太郎―― テクニックは超一流。顔もいい。他人を思いやる優しい性格で、チームメイトからの信頼も厚い。何より、主人公・翼を立てることを忘れない。全キャラクター中、アシスト数トップがそれを物語る。それゆえ、華々しく描かれる機会は少ない。基本、控えめ。だが、ファンにはそこがたまらない。都会的な雰囲気を持ちながら、父親の職業が放浪画家という意外性もいい。

極論を言えば―― キャプ翼(キャプつば)が国民的人気を得たのは、岬クンのおかげと言っても過言じゃない。何せ、同作品の女性ファンの8割は岬ファンなのだ(本当)。主人公より、脇で光るキャラに女性ファンがついて、作品自体の人気を押し上げたケースに、かの『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルの例もある。

そして―― ここが大事なところだけど、そんな風に岬クンが女性ファンに “見つかった” キッカケが、同作品のアニメ化だった。時に、今から40年前の1983年10月13日―― テレビ東京系の木曜19時半の30分枠で放映スタート。最高視聴率21.2%(85年2月14日)は、実に同局の歴代視聴率17位である。アニメ化されたことで、少年ジャンプを買わない女性たちも、同作品に触れることができたのだ。アニメ化されるとは、そういうことである。

小野伸二、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二、高原直泰… サッカーA代表「黄金世代」はキャプ翼ファン

また、同アニメ化により、まだ少年ジャンプを知らない小学生以下の子供たちもサッカーと出会い、日本のサッカー人口の裾野を広げたのは容易に推測できる。子どもたちにとって、スポーツとの出会いは早ければ早いほどいい。それが、小野伸二をはじめ、稲本潤一、遠藤保仁、小笠原満男、中田浩二、高原直泰ら1979年生まれの―― 後の「黄金世代」である。彼らは一様に「キャプ翼ファン」を自認する。

もっと言えば―― キャプ翼のアニメが80年代、世界各国(欧州・南米・中東など)へ輸出されたことで、海外でも同アニメの影響でサッカーを始めたとされる子どもたちの話を聞く。それが―― フランスのジダンやアンリ、イタリアのデル・ピエロやトッティ、スペインのイニエスタ、ポルトガルのロナウド、アルゼンチンのメッシ、コロンビアのロドリゲス、ブラジルのカカやロナウジーニョ、ネイマールなのだ。キャプ翼が世界のスーパープレイを育んだと言っても過言じゃない。

そんな日本や世界のサッカーシーンに影響を与えた『キャプテン翼』とは、なんだったのか。いかにして漫画が生まれ、アニメ化に至ったのか。アニメ主題歌「燃えてヒーロー」と共に、振り返りたいと思う。

原作者・高橋陽一と週刊少年ジャンプ編集者・鈴木清彦との出合い

『キャプテン翼』の作者は、高橋陽一先生である。1960年、東京は葛飾区生まれ。子どものころから野球少年で鳴らし、都立南葛飾高校時代の3年間は軟式野球部で活躍したという。ちなみに、その母校の略称「南葛」が、後にキャプ翼において、主人公・大空翼が通う小学校の校名になる。

先生とサッカーの出会いは意外と遅く、高校3年の6月、アルゼンチンW杯をテレビで見たのがキッカケだったそう。地元アルゼンチンが優勝し、ブラジルのジーコやドイツのルンメニゲ、イタリアのロッシ、フランスのプラティニらが若手ホープとして脚光を浴びた大会である。

時に、高3の高橋陽一青年は進路を決めるにあたり、小学生時代から描いてきた趣味の漫画を生かし、漫画家の道を志す。早速、集英社が主催する新人漫画家の登竜門「手塚賞」に応募するべく、SF短編(!)を描き上げる。ここで、応募の前にプロに見てもらおうと、週刊少年ジャンプ編集部に電話したのが運命の扉を開ける。この時、たまたま電話を取ったのが、ジャンプ編集部に配属されたばかりの新入社員―― 後に7年にも渡り、担当編集者としてキャプ翼を手掛ける鈴木清彦サンだった。

鈴木サンは持ち込まれたSF作品にはピンとこなかったものの、年の近い2人(5歳差)は、野球やサッカーのスポーツ談義で盛り上がる。この時、高橋青年の喜々として語る姿に何かを感じた鈴木サンは「スポーツ漫画を描いては?」と提案する。そして青年はサッカー漫画と野球漫画を交互に描いて、鈴木サンの助言通りに集英社の月例新人賞へ応募する。その5作目が晴れて入選し、1980年5月、週刊少年ジャンプに読切作品として掲載される。高橋陽一先生のデビュー作『キャプテン翼』である。

初期設定は南葛中学サッカー部。主人公の名は翼太郎

とはいえ、そのキャプ翼は今日の僕らが知るものとは少々違った。主人公の名は翼太郎で、南葛中学サッカー部のキャプテン。決勝戦の相手は、天才ゴールキーパー若林源三率いる修哲中学。翼と若林は幼馴染みで、南葛のサッカー部マネージャーのアキを巡って三角関係にある。おまけに作風はスポ根だった。作品のタッチとしては少々古臭く感じられた。

「このままでは連載は難しい」―― そう感じた編集者の鈴木サンは、先生と協議を重ねる。そこで出てきたアイデアが、あの「ボールは友だち」なるキャプ翼のコンセプトであり、設定を小学生に変えることで、画風はスポ根を脱して柔らかなタッチとなった。主人公・翼太郎は、大空翼と岬太郎という2人のキャラクターに分離された。かくして、読切1年後の1981年4月―― 新星『キャプテン翼』の連載が始まる。それは、70年代のスポ根とは違う、新しいスポーツ漫画を予感させた。週刊少年サンデーであだち充の『タッチ』の連載が始まる4ヶ月前の話である。

キャプ翼は連載開始3ヶ月ほど、読者アンケートの順位が下位に低迷する。しかし、同年7月、南葛小と修哲小の対抗試合(驚くことに、小学生の試合で実況アナウンスがある!)が延長線となり、ケガで出場できなくなった石崎了(坊主頭で、顔面ブロックのアイツです)に代わり、転校生・岬太郎が登場するあたりから人気が上向く。一人のスーパーヒーローがチームをけん引する70年代のスポ根とは違う、チームプレイで勝利を掴むキャプ翼の真価がいよいよ発揮される。

80年代初期の日本のサッカー環境

さて、ここからはキャプ翼のアニメ化に至る話である。いわゆる “もう一人の主人公” 岬太郎の登場で、人気が軌道に乗った『キャプテン翼』――。とはいえ、肝心の日本サッカー界は暗黒の80年代の真っ只中。オリンピックは銅メダルを獲得したメキシコ大会を最後に、ミュンヘン以降、アジア予選で敗退を重ね、ワールドカップに至っては、1954年の初参戦以来、まるで歯が立たない状況だった。

その一方、1977年に国立競技場でペレの「引退試合」を開催して7万人を動員したり、79年にはFIFAワールドユース選手権を日本に招致して、アルゼンチン代表のマラドーナが6ゴールを決めて日本にマラドーナブームが到来したり、81年からは、欧州と南米のクラブチームによる世界一決定戦「トヨタカップ」が中立国・日本で毎年開催されるようになったりと、世界レベルのサッカー熱は高まりつつあった。要は―― 世界と日本のサッカーの壁を壊すキッカケを、誰もが探していた。

そこへ目を付けたのが、テレビ東京だった。

テレビ東京と日本サッカー界の深い絆

意外と知られていないが、テレビ東京と日本サッカー界には深い絆がある。1968年から88年までの20年間、いわば日本のサッカー暗黒時代に『三菱ダイヤモンド・サッカー』なる国内唯一のサッカー番組を毎週放送し続けたのが、テレ東だった。欧州の国内リーグやW杯の予選、日本代表の国際親善試合などを編集して放送。サッカーファンにとって、世界のサッカーを視聴できる唯一の番組だった。

そんなテレ東が、サッカー暗黒時代とはいえ、キャプ翼のアニメ化に動くのは、もはや必然だった。思えば、テレ東の旧社名は東京12チャンネル。サッカーにとって「12」は特別な意味を持つ。それは―― 12番目の選手、つまりサポーター。日本サッカー界にとって、テレ東がサポーター的役割を担うのは、ある意味、開局以来の運命だったのかもしれない。

1982年12月、それまでテレ東内で『演歌の花道』や『年忘れにっぽんの歌』など、長年、同局の歌謡番組に携わってきた名物局員の “ネコさん” こと金子明雄サンが、局内のすべての番組を俯瞰する立場の編成部長に就任する。ある日、彼は知人宅を訪ねた際、小学3年生になる知人の息子に何の気なしに「どんなアニメを見たい?」と尋ねたところ、即座に「キャプテン翼」と答えが返ってきて、啓示を受ける――。

ネコさん、早速単行本を買って読むと、シンプルなストーリーながら、小学生が主役で、キャラクターも多彩で面白い。何よりサッカーが題材である。サッカーと言えば、局内のもう一人の “ネコさん” こと金子勝彦アナウンサーが担当する『三菱ダイヤモンド・サッカー』がある。テレ東にとってサッカーは他人事ではない。「これは、ウチでアニメ化しないと」――。

翼クンにとってボールが友だちであるように、テレ東にとってサッカーは長年の友人

早速、集英社を訪ねると、まだキャプ翼のアニメ化に手を挙げたテレビ局はないという。やはり、世間的にはサッカーは暗黒時代なのだ。そこでネコさん、「他局に渡さないでほしい」と約束を取り付け、持ち帰って編成部内で提案すると、ある問題が持ち上がる。正式決定ではないものの、翌年(83年)4月からスタートすべく、既に別のアニメ作品の準備が進んでいた。少年チャンピオンで連載中のギャグ漫画『らんぽう』である。これを今から差し替えるとなると、オオゴトになる。

加えて、「今どきスポコンものは流行らない」と、編成部内の大勢はキャプ翼のアニメ化に反対だった。しかし、ここでネコさんの一世一代の勘が働く。「今、これをアニメ化しないと、子どもたちのニーズを取り逃すことになる。それに、翼クンにとってボールが友だちであるように、テレ東にとってサッカーは長年の友人である。やろう。失敗すれば、私が全責任をとる」――。

彼の並々ならぬ思いを察したのか、間もなく編成部内もキャプ翼のアニメ化で固まる。ある意味、新編成部長就任へのご祝儀の意味もあったのかもしれない。何はともあれ、アニメ『キャプテン翼』はテレ東で放映されることになった。制作は、『らんぽう』の準備を進めていた土田プロダクションがスライドして担当。1983年10月13日、木曜19時半―― 同アニメはキックオフの笛を告げたのである。

主題歌「燃えてヒーロー」、歌うは沖田浩之

 ちょっとあれ見な エースが通る
 すぐれものゾと 街中騒ぐ
 蝶々サンバ(蝶々サンバ)
 ジグザグサンバ(ジグザグサンバ)
 アイツの噂で チャンバも走る

主題歌「燃えてヒーロー」は、作詞:吉岡治、作曲:内木弘。歌うは、沖田浩之である。沖田サンの起用は、タイトルの「ヒーロー」と彼の愛称「HIRO」をかける意味もあったのかもしれない。

ここで注目すべきは、作詞家である。吉岡治先生と言えば、美空ひばりの「真赤な太陽」をはじめ、五木ひろしの「細雪」、大川栄策の「さざんかの宿」、瀬川瑛子の「命くれない」、石川さゆりの「天城越え」など数々の演歌の名曲を手掛けた作詞家界の大御所先生。彼を起用できたのは、長年歌謡番組を手掛けたネコさんの人脈の賜物である。

とはいえ、そんな演歌の作詞家の大先生と、小学生が主人公のフレッシュなサッカーアニメの組み合わせは、様々な波紋を呼ぶ。「すぐれものゾと」「蝶々サンバ」「ジグザグサンバ」「チャンバも走る」「俺たちゃなんなの」「キリキリ舞さ」―― なんだろう、この謎の時代感(笑)。極めつけは「いつかキメるぜ 稲妻シュート」―― 断っておくが、原作のどこにも、そんなシュートは出てこない。

有名な話だが、長年、同詞の中で謎とされてきたワードに「チャンバ」がある。やれ「ポルトガル語で記者を意味するスラング」とか「岬クンの正体がポルトガル三世で、そのミドルネーム」とか様々な説が唱えられるも、2009年4月に発売された雑誌『Sportiva』の「キャプテン翼特集」で、当の吉岡先生に電話インタビューをして、長年の謎が氷解した。

「バーチャンを業界用語風に言うと、チャンバ。つまり、噂を聞いたらバーチャンも元気になって走ってしまう、そういうことですね(笑)」

恐るべし、吉岡治先生。ともあれ、そんな主題歌効果もあってか、同アニメは周囲の心配を見事に裏切り、視聴率は常時10%台後半と大ヒット。先にも記した通り、1985年2月には最高視聴率21.2%を記録する。そればかりか、長年暗黒時代にあった日本サッカーに光を照らし、やがて来る90年代のJリーグを始めとするサッカーブームへと繋がるのである。

1986年3月27日―― アニメ『キャプテン翼』は中学生編の決勝戦、南葛対東邦の両校同時優勝をもって有終の美を飾る。テレビ東京が、いわゆる「ドーハの悲劇」で同局最高視聴率48.1%を記録するのは、その7年7ヶ月後である。

カタリベ: 指南役

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