<レスリング>【2023年世界選手権・特集】「卵一つ」で東京オリンピックを逃した樋口黎(ミキハウス)が、8年ぶりのオリンピック

 

(文=ジャーナリスト・粟野仁雄)
 
 東京オリンピック代表を決めるプレーオフで敗れた時の悲壮な男ではなかった。

 ベオグラード(セルビア)で行われている2023年世界選手権第3日の9月18日、2016年リオデジャネイロ・オリンピック銀メダリストの樋口黎(ミキハウス)が男子フリースタイル57kg級決勝に登場。地元セルビア代表のステバン・ミチッチと対戦。2点先制されたが追いつき、第2ピリオドも接戦で4-4へ。その後、バックを取られる。終了間際、相手を場外に押し出し、セコンドがチャレンジに訴えたが通らず4-7で敗れ準優勝となった。

 「優勝だけを目指したのに」と悔しそうだったが、表情は暗くない。それもそのはず。前日に決勝進出を決め、日本のレスリング選手としてはパリ・オリンピックを射止めた第1号となっていたからだ。日本協会の定めたパリ大会の出場資格は、今大会の3位以内。東京オリンピックには出られなかった樋口は、2大会ぶりのオリンピック出場となる。

▲喜びの表情はなかったが、57kg級Uターンの順調な結果を見せた樋口黎

アルメニア選手の先制攻撃にも慌てずに対処

 決勝は、場内アナウンスも完全に地元びいき。異様な雰囲気での闘いを余儀なくされたが、「地元の声援は気にならなかった」。そして「片足タックルの処理をもう少ししっかりやらなきゃいけなかった」「グラウンドも妥協して取り切れないところがあった」「手足の長い外国人とあまりやっていなかった」などと盛んに反省点を並べた。

 ベテランらしく各試合は落ち着き払っていた。初戦を無失点で勝ち上がって調子に乗り、準々決勝は61kg級時代の宿敵でもあったアルメニアの選手と接戦に。試合開始早々に突っ込んできた相手に投げ飛ばされるなど、一時は2-7とリードされたが、慌てない。すきを見てタックルを決め、粘り強い攻撃で逆転し、ポイント差を縮めていく。

 後半、相手が猛然と追い上げたが落ち着いて対処し、16-14で振り切った。準決勝は、カザフスタン選手をテクニカルスペリオリティ(テクニカルフォール)で破り、2位以上を決めてパリ・オリンピック出場を射止めた。

▲決勝進出を決め、パリ行きの切符を手にした樋口は、「落ち着け」のポーズ。 出場枠獲得が目標ではない!

乙黒の登場と世界の65kg級選手の体の大きさで57kg級へUターン

 最近の樋口黎といえば、悲壮感が漂うことが多かった。東京オリンピック前のアジア予選で2位に入ればオリンピック切符獲得。その実力からすれば可能性は高かった。ところが計量で50グラム超過し、まさかの失格。高橋侑希(山梨学院大職)とオリンピック代表を賭けてのプレーオフも、減量苦で力が出せず、敗れて涙をのんだ。「卵一個」の重さに泣いた。

 2016年リオデジャネイロ・オリンピックで銀メダルを取ったあと、減量苦から65kg級に転向したが、ここに彗星のように現れたのが2018年の世界選手権で19歳にして優勝した乙黒拓斗(自衛隊=当時山梨学院大)。翌年の明治杯全日本選抜選手権でこそ乙黒に勝ったが、その後勝てず、外国選手の体の大きさも痛感。「この階級ではオリンピック出場は無理だ」と階級を57kg級に戻した。

 パリでの雪辱を目指す樋口は、昨年、同じベオグラードで行われた世界選手権は非オリンピック階級の61kg級に出て優勝。そのあと、57kgへ向けて調整していたが、年齢も上がり、壮絶な減量苦に陥ってゆく。

 そんな経緯もあり、今回、世界選手権に登場した17日、朝の計量にパスしたと聞いた日本の報道陣は安堵したものだ。

▲決勝戦、終了間際の攻撃をめぐってチャレンジしたが…

期待される新たなオリンピック記録

 日本レスリングの歴史では、オリンピックで一大会をスキップして2つの大会に出場した選手としては、1996年アトランタ大会に出場し、2004年アテネ大会に復活出場した横山秀和のみ。古くは1976年のモントリオール大会で優勝し、1984年ロサンゼルス大会で銅メダルを取った“天才レスラー”高田裕司もいるが、1980年のモスクワ大会は日本がボイコットして不参加だったが、幻の代表に選ばれていた。横山や今回の樋口黎とは全く事情が違う。

 横山はメダルに届かなかった。“忍耐の男”樋口黎がパリで表彰台に上がれば、オリンピックで「一大会スキップしての2大会メダル」という新たな歴史を作る。

 その話を向けると、「記録は考えてないけど、金メダルを目指します」と力強い言葉が返って来た。「天皇杯(全日本選手権=12月)は欠場します。3月までに完璧に仕上げます」と話す視線は、減量に苦しみ抜いて、遂に獲得したパリの晴れ舞台だけに向けられていた。

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