日本が誇るトップギタリスト【佐橋佳幸の音楽物語】サハシなくしてJ-POPは語れない!  佐橋佳幸―― その歩みは日本のポップミュージックシーン発展の歴史!

佐橋佳幸の仕事 1983-2023 vol.1

変幻自在に音楽活動を繰り広げてきた佐橋佳幸デビュー40周年

ギタリスト、アレンジャー、プロデューサー、そして時にはシンガーソングライターとして八面六臂の活躍を続ける佐橋佳幸。高校時代に結成したバンド “UGUISS” を率いて1983年9月にエピック・ソニーからデビューを飾って今年でちょうど40周年を迎えた。

小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」のイントロで聴かれる超有名なカッティング・フレーズはもちろん、山下達郎、佐野元春、桑田佳祐、藤井フミヤ、そして公私にわたるパートナーである松たか子など、それこそ無数のアーティストたちを幅広くサポートしてきた彼のギターの音色を耳にしたことがない人など1人もいないはずだ。

とはいえ、その活動があまりにも多彩かつ多岐にわたるためか、彼の仕事ぶりの全貌が語られる機会は意外と少ない。誰もが知っているようで知らない佐橋佳幸。そこで今回、この連載では、佐橋本人と共に、彼が歩んできた道のりをあらためて振り返ってゆこうと思う。ジャンルを超え、世代を超え、時には国境すら越え、変幻自在に音楽活動を繰り広げてきた佐橋の歩みはそのまま日本のポップ・ミュージックシーン発展の歴史でもあるのだから。

早熟な洋楽少年、指南役は近所に住む大学生のお姉さん

佐橋佳幸は1961年9月7日、東京・目黒区に生まれた。

洋楽に目覚めたのは小学校高学年の頃。きっかけは小遣いで買ったラジカセだった。

「70年代前半といえば『セイ!ヤング』や『オールナイトニッポン』といったラジオ深夜番組の全盛期。友達は(吉田)拓郎さんやフォーク系の人のDJ番組を聴いてたんだけど、僕はそっちに興味はなくて。当時のFEN(米軍極東放送網 現:AFN)を聴いたりしていました。おお、日本でも英語の番組が聴けるんだ、と子供心に感動しながら(笑)。あとラジオ関東(現:ラジオ日本)でやっていたヒットチャート番組『全米トップ40』の存在を知り、洋楽に夢中になるわけです」

その少し前、音楽好きの息子のために母親が買ってきてくれた1枚のLPも大きなきっかけになった。当時の東芝エキスプレス・レーベルから発売されていた『ベスト・フォーク・カレッジ・ポップス』(1970年)。フォー・セインツ、ザ・リガニーズ、ロック・キャンディーズ… といった日本人シンガーが、ボブ・ディランやママス&パパス、ジョニ・ミッチェルなどの曲を日本語詞で歌ったオムニバス・アルバム。

「なんで母親が僕にそんなレコードを買ってきたのか、今でも謎なんだけど。それをよく聴いていて、外国の曲っていいなと思っていたの。だから、全米ヒットチャートにも違和感なくすんなり入れた。日本でもフォークが全盛だったけど、当時はアメリカのヒットチャートもアコースティック中心の時代だったでしょ」

昭和の早熟な洋楽少年にはたいてい “指南役” がいる。年上の兄姉とか、親戚とか、近所の大学生とか。佐橋の場合、それは近所に住む大学生のお姉さんだった。当時、佐橋の父親が経営する印刷会社が入居していたビルにファストフード店があり、そこで働く若者たちが時おり佐橋家に遊びに来ていたという。彼女もそのひとり。かなりの洋楽マニアだったようだ。佐橋家を訪れるたび自分を質問攻めにしてくるおませな小学生・佐橋のオタクとしての将来性を見抜いたか、ある日、「佳幸君、そんなにレコードが好きなら、私の聴いていたのをあげるよ」と、気前よく、どさっとシングル盤をくれた。

「それがもう今となっては貴重盤ばかり。CSNYの『ウッドストック』のモノラル・シングルとかね。ここでロック好きが一気に加速しちゃうの。その頃、自分のお小遣いで初めて買ったアルバムがバッファロー・スプリングフィールドのセカンド『アゲイン』だもん。その次に買ったのがジャクソン・ブラウンの『フォー・エヴリマン』」

小学生とは思えない。というか、今とまったく変わらない。そして同じ頃、彼は自分でもギターを弾いてみたいと思うようになる。

「そのお姉さんの大学での仲間たちも当然のことながら音楽好きで。ギター持って自分たちで歌ってるような人たちだったの。あと、同級生のお兄さんがフォークギターを弾きながら当時流行っていた吉田拓郎とかを歌っているところを見たりして。自分でもギターを弾いてみたいと思い始めた。それと、よくラジオでDJが “シンガーソングライター” と言うのを耳にしていたんだけど、その言葉の意味を理解したのがほぼ同時期。そうか、僕は “シンガーソングライター” ってやつになりたいのかなと気づいたんです。自分でギターを弾いて、ラジオで流れているようないい曲を書いて、歌ってみたいなぁ… と。自然に思ったんだよね。それで小学校を卒業する年の正月、貯金とお年玉をはたいてフォークギターを買った。そこからはもうあっという間に “現在に至る”。好きなものもやってることも、小学生の頃から何ひとつ変わっていない。聴いて、弾いて… という一本道をまっしぐら(笑)」

中学生だった佐橋少年は目の当たりにしたシュガー・ベイブ

早くもこの段階で、のちに誰もが知ることになる “佐橋佳幸” の音楽家としての基本型が完成したわけだ。ほどなく目黒区立目黒第一中学に入学。

「福島くんと三谷くん、同じような趣味の同級生と仲良くなって。3人でいろんな音楽を聴くようになります。日本の音楽もいろいろ教えてもらった。福島くんはとにかく友部正人さんが大好きでね。 “この曲、はっぴいえんどがバックをやっているんだよ” とか、友部さんのレコードを聴かせてくれたり。中学1年生の時にはもう3人ではっぴいえんど聴いてたな。73年かな。もうすぐ解散しちゃう時期だよね」

はっぴいえんどの解散を経て、1970年代半ば。日本のポップシーンは新たなフェーズへ。次世代バンドが次々と現れ始めた。そのひとつが山下達郎率いるシュガー・ベイブ。1975年、デビューしたてだった彼らのライヴを中学生だった佐橋少年は目の当たりにしている。彼がいかに早熟な子供だったかを物語る有名なエピソードのひとつだ。

「シュガー・ベイブは衝撃。ラジオで初めて聴いてビックリした。そしたら福島くんが、今度シュガー・ベイブが渋谷ヤマハの店頭で無料ライヴやるらしいよ、タダ見られるよって教えてくれたから見に行ったの。中学生3人で。チャリンコ飛ばして」

かつて渋谷・道玄坂にあったヤマハミュージック東京渋谷店。1966年の開店以来、楽器だけでなく楽譜やレコード販売、音楽教室、店頭ライヴなど多彩な形で東京城南地区の音楽文化の発信基地的な役割を果たしてきた。

「その頃、音楽をやる人たちって楽器屋さんがたまり場だったよね。僕らの地元エリアでは断然、渋谷のヤマハ。2010年に閉店した時、僕はもう行くことも少なくなっていたけれど、やっぱりショックだったよ。音楽や楽器に詳しくて親切な店員さんが多かったし。いろんな人を紹介してくれたり、本当によくしてもらった。絶対買えるわけないマーチンの高いギターとか、最初に弾かせてくれたのも渋谷のヤマハだった。すっごい見張られてたけどね(笑)。渋谷店に行くとプロのミュージシャンもたくさんいた。シュガー・ベイブを見たのと同じ頃、マンタ(松任谷正隆)さん以外のキャラメル・ママの3人(細野晴臣、鈴木茂、林立夫)がヤマハに入って行くところをオレたち目撃してさ。1階のところで話しかけてサインもらった。後に林さんに聞いてみたら、たぶんEAST WESTの審査員をやった時の打ち合わせじゃないかなって言ってた」

初めてのバンド “人力飛行機” を結成

やがて佐橋は福島くん、三谷くんと初めてのバンド “人力飛行機” を結成する。バンド名は鈴木茂のソロアルバム『BAND WAGON』(1975年)収録の「人力飛行機の夜」に由来する。このバンドでポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募したところスルッと勝ち抜き、中学生ながら地区予選大会の本選にまで進出した。

「完全にCSNみたいなバンド。シュガー・ベイブとは違う方向性だったんだけど、審査員ウケはよかった。はっぴいえんどやらイーグルスやらをあからさまにパクってる、こまっしゃくれた中学生たちだったから(笑)。審査員も、まわりのお兄さんたちも微笑ましかったんだろうね。それで特別賞をもらったの」

地区予選まで進んだごほうびとして人力飛行機はヤマハ渋谷店でのライヴにも出演。つまり佐橋少年は、中学生にしてシュガー・ベイブと同じステージに立ったのだ。ポプコンはまさに新人アーティストの登竜門。地区大会には杉真理、村田和人など、当時の東京アマチュアシーンの錚々たる面々が顔を揃えていた。人力飛行機はヤマハが運営していたレコーディングスタジオ兼ミニライブ会場 “渋谷エピキュラス” でもライブを披露したことがあるが、そのとき彼らを目撃したひとりに、やがて佐橋がザ・ホーボー・キング・バンドの一員として活動を共にすることになる佐野元春もいた。佐野にとって、おませな中学生バンドはよほど印象的だったのだろう。その後、1980年代になってから “あの時の中学生” が新進気鋭のギタリストとして活躍していることに気づいた佐野は、自身が主宰するレーベルからリリースしたオムニバス・アルバム『mf Various Artists Vol.1』(1989年)への参加をオファー。10数年ぶりの再会を果たした。

「その時に知り合ったお兄さんたちが、自分たちが出るオムニバスライブに声をかけてくれて出演したこともあるし。アマチュアとはいえ、みんなすごく巧くて個性的な人たちばかり。中学生にしてそんな世界を見てしまったらもう、勉強どころじゃない。受験も近づいてきたけど、とにかく音楽のことで頭がいっぱい。でも、とりあえずは高校くらいは行ったほうがよくね? ということになって…」

とりあえず今の成績で受験勉強せずに入れる高校ならどこでもいい。と、おそろしく消極的な動機で入学したのが東京都世田谷区にある都立松原高校。ところが、この選択が後に彼の音楽人生を決定づけることになるのだった。

第2回へつづく。

次回は、“奇跡の都立高校” として音楽ファンの間では知れ渡っている都立松原高校でのエピソードをお届けします。

カタリベ: 能地祐子

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