丸ごと1章削除、真相は検閲でなく自主規制 作家の不満から異例の再刊 記憶遺産目指す大田洋子『屍の街』 (中) 

By 江刺昭子

 「世界の記憶」(世界記憶遺産)への登録を目指す大田洋子の原爆文学『屍の街』(しかばねのまち)は、被爆からわずか3カ月後の1945年11月に脱稿している。だが、原稿は中央公論社から送り返されてしまう。当時、雑誌『中央公論』編集部にいて、原稿を受け取った海老原光義に、70年末、この間の事情を聞いた。(ノンフィクション作家、女性史研究者=江刺昭子)

被爆体験を語る大田洋子=1954年8月4日、静岡県伊東市

 原稿を読んだ海老原は「これは証言として大変なものだ。後世に残すべき作品だ」と思い、編集長の畑中繁雄に感動を伝えた。しかし、畑中は「今の情勢では掲載は無理だ」と言って海老原をがっかりさせた。海老原の記憶ではタイトルは「屍」だった。

 畑中が「今の情勢」と言ったのは、連合国軍総司令部(GHQ)のプレスコードによる表現規制のことだ。巧妙に行われたのであまり知られていないが、占領下の言論を大きくゆがめた。『屍の街』はそのプレスコードに翻弄(ほんろう)された。

 畑中は戦中と戦後の言論統制の両方を知る人である。戦時下、治安維持法違反で編集者や新聞記者約60人が逮捕され、4人が獄死した事件で逮捕されたうちの一人だった。畑中の著書『覚書昭和出版弾圧小史』(図書新聞社、65年)によれば、GHQの言論統制は次のように徹底的だった。 

 事前検閲は戦争中の軍部や官僚のそれよりはるかに大規模であって、新聞雑誌はもとより、単行書、パンフレットの類にいたるまで(略)全部とりそろえて提出しなければならなかった。ところが、いったんこれにひっかかったとなると、有無をいわさず、削除、撤回は先方側のおもうままであり、こちら側の釈明、言い分はいっさい聴かれなかった。

  『屍の街』がようやく中央公論社から世に出たのは48年11月。さらに1年半後には冬芽(とうが)書房からも同じ題で「完本」として出版された。冬芽版の「序」に大田は、中公版への不満を吐露している。

  『屍の街』は二十三年の十一月に一度出版された。しかし私が大切だと思う個所がかなり多くの枚数、自発的に削除された。影のうすい間のぬけたものとなった。 

 中公版と冬芽版を比べる。章建てを見ると、中公版は6章、冬芽版は7章から成り、冬芽版の「無欲顔貌」という章(400字換算で30枚)が中公版から丸ごと抜けている。「無欲顔貌」には何が書かれていたのか。 

無欲顔貌の章。自筆原稿から削除されたことが分かる(原爆文学研究家の故長岡弘芳氏から筆者が提供された写真)

 広島市街に原子爆弾の空爆のあったときは、すでに戦争ではなかった。(略)軍国主義者たちが、捨鉢(すてばち)なあがきをしなかったならば、戦争はほんとうに終っていたのだ。原子爆弾はそれが広島であってもどこであっても、つまりは終っていた戦争のあとの、醜い余韻であったとしか思えない。戦争は硫黄島から沖縄へくる波のうえですでに終っていた。だから、私の心には倒錯があるのだ。原子爆弾をわれわれの頭上に落としたのは、アメリカであると同時に、日本の軍閥政治そのものによって落されたのだという風にである。

 戦争と原爆への大田の見方が強く出ている。また『中国新聞』掲載の8月25日時点での死者、行方不明、重傷者数を書き写し、原子爆弾症に関する解剖学者や病理学者の見解も新聞から延々と引用している。なぜ、この章が削除されたのか。

削除された無欲顔貌のページ(原爆文学研究家の故長岡弘芳氏から筆者が提供された写真)

 わたしは『草饐 評伝大田洋子』の初版を出版したのちの72年5月、改めて中央公論社の編集者だった笹原金次郎と藤田圭雄(たまお)、長谷川鑛平(こうへい)に取材した。

 笹原は48年の日記を見せてくれた。「5・17 大田洋子来社 雨の日」「5・27 晴 大田洋子著『ひろしま』の原稿清書完了」とある。つまり、5月17日に大田が原稿を持って来社した。出版に至る経緯については「雄作氏の一言ですよ、17日にはもう決まっていましたよ」と明かした。

  「雄作氏」とは当時の社長、嶋中雄作のこと。「女流作家を非常に大事にする人ですからね」と付け加えた。この時期はプレスコードがやや緩和されていたが、原爆を正面から扱った作品は大手出版社からはまだ出ておらず、社長の決断が大きかったのだろう。

 「原稿は仙花紙みたいなもの、ワラ半紙みたいなもので苦労して清書しましたよ。27日には清書ができたということです」と話してくれた。日本近代文学館収蔵の「笹原金次郎 清書原稿」がそれで、日記からこの時のタイトルが「ひろしま」だったことがわかる。

笹原金次郎氏の清書原稿(原爆文学研究家の故長岡弘芳氏から筆者が提供された写真)

 当時の出版部長、藤田圭雄はCIE(民間情報教育局)に呼ばれたという。

 「検閲でだめだと言われたところを〇〇(伏せ字)にしてはいけないなどと説明を受けました。下検閲をやるのは日本人だから、なるべく責任が来ないように全部サプレス(抑制)してしまう。なるべくさしさわりのないようにしたんですね。まず原爆の小説だという観念があるから厳密に目を光らせたのだと思う」。

 編集を担当した長谷川鑛平の証言。のちに「校正の神様」と呼ばれ『本と校正』(中公新書、65年)の著書もある人だ。「わたしの意志ではなく、社の代表で…」と断ったうえで、「無欲顔貌」の章削除に至る大田とのやりとりをこう振り返った。

 「あの章は新聞の切り抜きその他、数字が多くそれだけアクチュアリティ(現実性)が強くなるので削除してもらえないだろうか、そうでないと出版に踏み切れない。GHQがこう書けということで直すと、かえって作品がゆがめられることになるからということで納得してもらいました。それにあすこに出てくる数字に疑問をもたれていたということもあります。数字を出すのは、アメリカを怒らせるのではないかということです」

 検閲にかかったのではなく、プレスコードをおもんぱかっての自主規制だったのだ。

 「結果的にGHQからは何も文句はこなかった。他のこまかい文章を書き直させたり、こっちで表現を変えたりしたことはありません。冬芽書房版と違うところがあるとしたら、本人が書き直したのでしょう。大田さんは中公版に不満だった。(こちらは)『それなら時期を待ってまた出版したらいいでしょう』と言ったから、冬芽版が出ても文句を言えなかった。本当は10年、中公に版権があるのですがね」

 短期間で再刊となった異例の経過にも、自主規制による削除が影響していた。(続く)

「数奇な運命」 原爆の記録として評価されながら3年間出版できず 記憶遺産目指す大田洋子『屍の街』(上)

https://www.47news.jp/9900047.html

原爆の記憶を「忘れろ」と迫ったGHQ 大田洋子『屍の街』(下)

https://www.47news.jp/9908664.html

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