作曲家 平井夏美が語る「瑠璃色の地球」聖子のファンタジーと明菜のドキュメンタリー  松田聖子の復帰作にしてシングルカットを前提としていないアルバム「SUPREME」

「2001年宇宙の旅」のラストシーンをイメージした「瑠璃色の地球」

作曲の依頼には様々な形態があって、詞が先にあって曲を付ける場合、曲を先に作って、それに詞を付けてもらう場合、今回のテーマである「瑠璃色の地球」の場合はまず先にタイトルがあって、そのテーマに沿って曲を作るという比較的珍しいケースでした。そのタイトルを作詞の松本隆さんから聞いた時、松田聖子さんの曲にしては、随分と振り切ったテーマだと思って、映画『2001年宇宙の旅』のラストシーンのような壮大なスケール感のある作品を作らなければと思った記憶があります。今になって思い起こすと松本さんは勘の鋭い人だから、既にその時聖子さんが母になることを予知していたのではないかと思います。

この作品を書いたのが1986年ですから、かれこれ40年近く前の作品になりますが、この頃イラン・イラク戦争にアメリカが介入して戦闘が激化。テレビで初めてみる本当の戦争が起きた時代でした。この頃は作品の普遍性について考えてもみなかったですし、むしろこの作品が永く歌い継がれることが、前回記した「少年時代」と同じように「普遍性」について自分自身が深く意識するきっかけになったのだと思います。

復帰作の制作が頓挫したことが作品を作る発端に

作品を作る発端となったのは、後に『SUPREME』というタイトルでリリースされた松田聖子さんの13枚目のオリジナルアルバムの制作が頓挫したことに始まります。その頃の自分は松本さんの自叙伝的小説『微熱少年』のパブリシストとして、日常的に松本さんと行動を共にしている時期でした。冒険少年でもある松本さんは常にチャレンジの連続で、ショウビズ界で成功を収めた後、小説、映画制作と創作者としての可能性の幅を拡げたいと考えていた時期で、松田聖子さんとも音楽業界全体とも距離を置き、次なる展開を模索していた時期でもありました。

そんな頃、結婚で一時期芸能活動を休止していた聖子さんの復帰作が制作中断という話がもれ伝わってきて、当時の聖子さんの原盤プロデューサーであったサンミュージック出版(当時)の杉村昌子さんから突然私に「松本さんで再度制作をお願いできないか」との相談がありました。

復帰作ということで、たぶん過度の期待やプレッシャーで制作が中断しそうなことは予測できましたし、その期待を裏切ることなく制作を引き継ぐというのはかなりハードルの高い仕事でした。松本さんは即答を避けましたが、自分としては大滝さんの混乱続きだった『EACH TIME』のスタジオ経験から、期待の大きなセッションほど、船頭多くして船山に登るということを経験として学んでいたので、最終決定権を松本さん側に、つまり “プロデュース権” をお引き受けする条件として原盤制作側に要求しました。制作スケジュールが逼迫していたこともあって要求は即受け入れられ、松本さんも納得の上、“RE・プロデュース” という形での制作が始まりました。

既にアルバム分のオケのレコーディングは終わっていましたが、数曲を除き、新たに曲を発注することになり、次の時代の松田聖子作品を担う作家達を起用したいという松本さんのコンセプトの元、私も新たな作家達の1人として松本さんから声をかけられたのが始まりでした。

松田聖子の新たなパブリックイメージを築き上げた作品

シングルカットを前提としていないアルバムだったので、タイトルのイメージから、たぶんオープニングか、ラストを飾る楽曲だと思い、ここでもビートルズ関連の楽曲をモチーフに、本国ではシングルカットされていない名曲「イエスタデイ」や「ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア」そして「イマジン」をイメージしたのを覚えています。

作品はシングルカットされていないにもかかわらず、その年のNHK紅白歌合戦やレコード大賞授賞式で歌われ、松田聖子さんの新たなパブリックイメージを築き上げた作品となり、この曲が収録されたアルバムも驚異的なセールスを記録しました。

明菜バージョンは絶望的な未来のドキュメンタリーを見ているように聴こえる

そして16年後の2002年、中森明菜さんのカバーが発表されます。その前年の2001年にアメリカ同時多発テロ事件があり、不安定な時代の始まりでもありました。20世紀後半の日本を代表するライバルとも称された “歌姫” のカバーとして大きな話題となり、この曲が収められたアルバム『Zero Album 歌姫2』も大ヒットを記録します。

当時、中森さんのカバーを聴いた松本さんが「聖子バージョンは美しい地球を夢見るファンタジーの世界だけど、明菜バージョンは絶望的な未来のドキュメンタリーを見ているように聴こえる」―― と表したのがたいへん印象的でした。表現者によって、作品の本質までが全く変わったものになってしまうという体験はこれが初めてでした。

ここで、私がこのアルバムのスーパーバイザーを務めていたこともあり、私が選曲したとよく言われますが、中森さんの『歌姫』シリーズは過去の流行歌に関わった歌手や作家へのリスペクトがコンセプトであり、自分が自分をリスペクトするような主客転倒したレコード制作者ではないので、決して私の選曲ではありません。

当時、私は明菜さんが選んだと聞いていましたが、その後、御本人に確認したところ、「川原さんが是非歌ってほしいと聞いたから」―― と言われ、誰が選曲したかは現在まで謎のままです。

時の流れに関係なく多くの人の心に寄り添えた作品

その後2011年東日本大震災が起きた年には、聖子さん自身がセルフカバー、その年の紅白でも再歌唱され、CMでは年間にわたって手嶌葵さんのカバーが使用されました。そして2020年から最近まで続いたパンデミックの時代、松本さん自身が立ち上げたリモートでのコーラスセッションや聖子さんの再々レコーディングバージョンが発表され、3度目の紅白での歌唱。その他企業CMにも使われ、様々なアーティストによって歌い継がれてきました。自らが意図せずに普遍性を持った作品になったのです。

人々が不幸な時代に陥ったときに歌われる楽曲で、時の流れに関係なく多くの人の心に寄り添えた作品とも思います。しかしもう一方では、この歌を必用としない時代が来ることこそがいちばん望むべき世界とも思えて、今でも「瑠璃色の地球」はなんとも自分自身を複雑な気分にさせる作品でもあります。

カタリベ: 川原伸司

アナタにおすすめのコラム 作曲家 平井夏美が語る「少年時代」曲づくりの中で井上陽水から深く学んだこと

▶ 松田聖子の記事一覧はこちら!

80年代の音楽エンターテインメントにまつわるオリジナルコラムを毎日配信! 誰もが無料で参加できるウェブサイト ▶Re:minder はこちらです!

© Reminder LLC