シティポップ・マエストロ【林哲司インタビュー】② 優れた作詞家と数々のヒット曲!  今年デビュー50周年を迎えた作曲家・林哲司メモリアルコンサートが開催!

『シティポップ・マエストロ【林哲司インタビュー】① 曲作りのきっかけは加山雄三!』からのつづき

ちょうど40年経ったタイミングで「真夜中のドア」がspotifyで1位

―― 昨今のシティポップブームでは、林さんがその中心にいらっしゃる形になりましたが、発売からちょうど40年経ったタイミングで「真夜中のドア〜stay with me」がspotifyで1位になってどういった心境でしたか?

林哲司(以下、林):謎ですよね、「すごいことになってるよ」って周りから言われて。僕もネットサーフィンをするようなタイプじゃないんで、情報として聞いた時に、なんでっていう軽く疑問でした。ヒットの構図を分析しなければいけないプロデューサーという立場があったとすると、ましてや自分のことですから、それがなぜかを追求していくわけですよね。いろいろな分析があってどれも一理ある。正しいんだけど、それは1つの理由だけじゃなくて、複合的な要素があるってことはわかりました。

80年代に僕たちがアメリカやイギリスなど英語圏の先進国の音楽曲を取り入れながら、それを日本の歌として作っていた時代があった。僕もそうだけど、僕ら若手世代はみんなそうだったわけで、それは作曲家に限らず、ミュージシャンもアーティストもみんなその方向で吸収して、いいものを作っていたということですよね。それは分かったんだけど、ただ自分の中で1つだけ解せなかったのは、80年代の日本の音楽はアメリカやイギリスの音楽に影響されているのに、なぜ世界の目がそっちに行かなかったのかなって。なんで本家の方に行かなかったの、っていう。

―― そのところはどう分析されたのでしょうか。

林:日本の曲のレコーディングが海外で頻繁に行われるような時代があったんですけどね。その時期に向こうへいち早く渡って生活していた松原みきさんのエンジニアがいるんですけど、彼が言ってたのが、「日本人って器用だからさ、もうこっちの奴らのようなメロディーを書けるんだけどさ、違うんだよね。日本人の方が繊細なメロディーで、奴らよりも濡れてるんだよ。ドライじゃない」みたいなことで。それが今になってみると、同じようなものを追っかけていたにしても、やっぱり日本特有の哀愁だとか、メロディーの運びとかっていうものあるようなんですね。コンピューターを中心としたアメリカの先進的な音楽、例えばラップという現象の中でメロディーがどこか不在になっていた段階で出てきたっていうのも理由の一つにあるのかもしれないですね。

インターネットの時代になって、音楽の聴かれ方がサブスク中心になり、実際にレコードやCDを買って音楽を聴く時代ではなくなっちゃったじゃないですか。そういう文化の中で、日本の音楽ってことに対しての抵抗感もなく、それから時代もアメリカ史上主義じゃなくなっていますしね。もうひとつは日本の文化が、音楽以上に、デザイナーが向こうに行ったりとか、あるいはアニメがすごく人気があるといったクールジャパンの時代になっていった。その中で音楽に対しても垣根がなく、ニュートラルに聴かれる環境が作られていったんじゃないかと思うんですね。そこでインフルエンサーたちが、この曲いいぜって言ったものが拡散されていったと思うんです。ブームというものは ある程度の数字を超えてしまうと、この件に限らずどのヒットも伝染してゆく状況は速いですから。

―― ひたすら明るいアメリカンポップスにはなかった、日本人の琴線に触れるような独特の節回しが、海外でも受け入れられるようになったということですかね。

林:僕はロックも好きだし、ブルースも好きだし、いろんな音楽が好きというのがあって、そういうカテゴライズされたものの中でも本当に好きなものは何かって言うと、同じロックでもソフトなものであったりとか、ちょっと洒落た感覚を持ってたものであったりとか、あるいは音楽的にあまり計算されすぎるのも嫌なんですけど、それでも少し工夫を施されたような音楽というのが、好きで反応するところなんです。だから、バカラックであったりとか、ソフトロックやボサノバなんかが、一番自分の肌に合っているんじゃないかなって気がするんですけどね。

世代を超えた音楽の趣向から作られた “悲しみ三部作”

―― 今、支持されている音楽というのはまさにその辺りですよね。そういう世代を超えた音楽の趣向から、林さんの “悲しみ三部作” のような、哀愁を帯びたメロディが作られたのかなと思うんですけれども。

林:自分がオメガ(トライブ)に曲を書いていた段階で、完璧な洋楽の意識じゃなくて、意図的にちょっとドメスティックな方向にっていうのはありました。80年代の曲の書き方として気づくのですけどね。これはもう「悲しい色やね」あたりから、自分が求められてるものは何かっていうことがおぼろげに見えてきたんですよ。もちろん、エポックメイキングになった「真夜中のドア」や「September」にもその色合いはあるんですけど。やっぱり、「悲しい色やね」が歌としてのインパクトもあったし、アレンジもブルージーで、上田正樹さんのああいう歌声があって日本の曲になったっていうことで、大きな1曲でしたね。

―― 最初は関西弁の詞に違和感を持たれたというような記事を拝見したこともありましたが、そこはもう落ち着いてご覧になられている感じなのでしょうか。

林:やっぱりそれは、標準語のスマートな詞が入っていたら、もう少し早く受け止められたと思うんですけど、関西弁ってイントネーションの強いものがありますからね。曲として言葉における位置付けがものすごく明確にされてしまったっていう。そうすると、曲を先に書いている人間としては、こういうメロディーラインにはもうちょっとスマートなものであってほしいっていう気持ちはありました。言葉のインパクトが強くて、想像以上のものを感じてしまうところが。

でも、時間が経つと、自分が客観的に聴ける瞬間があるんですよ。街中で意図しない状況で聴かされるっていうタイミングがあったりして。その時に、「あ、歌ってこういうものなのかな」っていうことを感じて、やっぱりメロディを追っかけているだけではダメだなと。言葉も入ってくるし、歌い手のソウルも入ってくるっていう。そういうことも含めた上での作品作りをしていかなきゃいけないっていうことも感じたわけですね。

だから杏里さんにしてもオメガにしても、日本をベースにした曲の書き方をしなきゃいけないっていうことを意識するようになりました。技術的にも、洋楽だったらこうするだろうけど、あえてここは日本的なコード進行を置こうというように。そこがリスナーに響くことをなんとなく掴んだ感じがありました。そうするとヒットという形で答えもちゃんと返ってきた時期だったんですよね。サウンド的にもAORが流行っていて音の構築が面白く変貌していた時代、ミュージシャンのクレジットを見られるようになったり、音自体がすごくゴージャスになっている時代でもありました。同時に自分の作品で、洋楽と邦楽のバランスがほどよく作られていたのかなっていう。後付けじゃないんですけど、そういう状況になったんじゃないかと思います。

優れた作詞家たちと組んで生み出された数々のヒット曲

――「悲しい色やね」もそうですし、「悲しみがとまらない」「北ウィング」など、作詞家の康珍化さんとの作品でヒットが連なりますが、当時から親交は深かったのでしょうか。

林:浅野ゆう子さんの「半分愛して」が最初でしたかね。「悲しい色やね」の時もまだ会ってはいませんでした。実際に会ったのは、杏里さんの作品ぐらいからですね。不思議なことに、たぶん康さんもそうだったと思いますけど、僕たちからこの人と組ましてっていう機会は そんなになかったと思います。まだ相手が決まっていない時に、じゃあ康さんいいんじゃない、とかっていうのはあったとは思いますが。絶対この2人でやらしてっていうようなことは、僕らから発したことはなかったです。

―― 康さんに限らず、大抵は曲から先に作られるわけですよね。ご自分のイメージと は違う詞がついてしまう場合もあるのでしょうか。

林:もちろんありますけど。でもなんだろうな、松本(隆)さんにしても、売野(雅勇)さんにしても、秋元(康)さんにしても、みなさんプロの作詞家としての力量といいますか、安心して任せられる独自の世界をお持ちでしたから、例え自分が思い描いたのと違うものが出てきても、それはそれですごく良かったりするわけですから。こういうのもあったかって気づかされるみたいな。それくらいプロフェッショナルだなという風に感じるような方たちですから。

プロデューサーの観点からも阿久悠に通じる秋元康

―― 秋元康さんともたくさん組んでらっしゃいますけど、それまでの作詞家の方になかったような部分を感じられたりしましたか?

林 みなさんそれぞれに特徴がありますけど、秋元さんはやっぱりアイデアマンですよね。彼と話をしている時に、「林さんはアーティストだけど、僕はプロデューサーだから」って言っていましたけど、とにかく彼には成功させるという強いベクトルがある。そこがプロデューサーという意味なんでしょうね。林さんは成功以上にいい作品を求めるでしょう、とも言ってましたけど(笑)。

―― そういう意味では、秋元さんは阿久悠さんに通ずるところがあるのでしょうか。スタートが放送作家であったということも含めて。

林:あぁ、そうですね。プロデューサーとしての観点からも。秋元さんって、曲を聴いて言葉が出てくることもあるかもしれないけど、言葉よりも多分アイディアが浮かぶんじゃないですかね。ここのメロディに対しては何をやろうかっていう、そのアーティストと直結したところで、これをやったら面白いっていうロジックじゃないかなっていう気がするんですよね。

売野(雅勇)さんなんかになると、やっぱり言葉そのものの表現のインパクトだとか、最後の捨て台詞だとか、例えば(中森)明菜さんの「いいかげんにして」だとか。そういう言葉の強さみたいなものと時代をうまく取り入れるっていうことを感じる。だけど、康さんは僕が見てると、ストーリー・テラーであると同時に比喩の名手でもあると。普通は比喩に走りすぎると、メロディに対する言葉のノリが悪かったりするんだけど、康さんの場合は言葉のノリと比喩の力、両方を兼ね備えているんですよね。そこに音楽を知ってる人間というのを感じますね。一方で松本さんは、メランコリックなストーリーを積み重ねることに関して長けた人だと思っているから。それぞれやっぱり作詞家の人たちはうまいなって感じがします。

第3回へつづく
次回は、11月5日に開催される『ザ・シティ・ポップ・クロニクル 林哲司の世界 in コンサート』について、現在の心境をたっぷりお届けします。

カタリベ: 鈴木啓之

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