セピア色の家族写真が語る、98年前の大震災 94歳女性が祖母から伝え聞いた被災体験「本当に大変な時代を生きてきた」 兵庫

当時、城崎小学校の児童だったきくさんが書き留めていた短歌=豊岡市城崎町湯島

 セピア色の白黒写真に、着物と洋装の7人が並んでいる。兵庫県豊岡市街地と城崎温泉街が灰じんに帰した1925(大正14)年5月23日の北但大震災から程なく、一家が仮住まいしていた同市内で撮影されたという。同市城崎町湯島の岡本靖子さん(94)が大事にしてきたアルバムの1枚で、靖子さんの父母や父の姉妹、祖父母が写っている。

 7人の中で一番幼いのは震災当時、城崎小学校6年生だったという叔母のきくさんだ。10年以上前に亡くなったが、生前に数多くの短歌を詠んだ中に、「城崎大震災を想ひ出して」と題した5句を残していた。

 「余震つづく深き亀裂の校庭を 無中で逃げしよ六年生なりき」「傾ける校舎の棟に閃光(せんこう)はしり 一瞬火柱天をつきたり」「地獄絵にまごう湯の町下に見て 嗚咽(おえつ)の中に父母を呼ぶ」「跣(はだし)にて逃げし裏山越しゆけば 線路に放心の人の群つづく」「老い深む今もまざまざと少女期の あの強烈な情景忘れづ」(原文まま)。小学生が見た当時の情景が、三十一(みそひと)文字で生々しく記録されている。

 きくさんの姉まささんは豊岡高等女学校(現豊岡高校)の生徒で、修学旅行先の東京で郷里の被災を知った。靖子さんの祖母、しまさんも家屋の下敷きになったが、祖父に助け出された。靖子さんに伝承された一連の家族の被災体験は、全て祖母から聞いたものだという。

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 祖父母ら家族は震災前、同温泉街の外湯「一の湯」から少し上(かみ)(西側)の道路沿いで、みそやしょうゆなどの日用品を扱う「京屋」という雑貨店と、大谿川に面した木屋町側で畳店を営んでいたという。

 5月23日の昼前、祖母は土間で食事の支度をしていた。突然、家がドスンと上から崩れ落ちたが、土間部分に空間ができ、難を逃れた。だが、行く手を阻まれて脱出できない。そこに、外出先の菩提(ぼだい)寺から戻ってきた祖父から「どこだー!」と声をかけられ、がれきの下からドンドンとたたいて「ここだー、ここだー」と大声を張り上げ、祖母は助け出された。間もなく西方面から火が回り、自宅も蔵も全て焼き尽くされたという。

 まささんは、修学旅行中で助かった。当時の新聞などには、急きょ引き返し、郷里の惨状に涙する女学生の様子が伝えられている。

 きくさんは、城崎小学校で被災し、山を伝って温泉街から離れた城崎町今津方面へ逃げたと聞く。当時の記録などによると、学校にいた児童は全員避難して無事だったが、校舎は後に焼失した。

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 靖子さんは震災4年後の29(昭和4)年生まれ。長男だった父猪之助さんは東京で働いていたが、靖子さんが3歳の時に31歳で早世したため、父の古里である城崎に戻った。時代は戦時色が濃くなっていく。

 自らは国民学校を卒業後、尼崎市の軍需工場で終戦を迎える。地下工場でプロペラを作り、焼夷(しょうい)弾の雨あられも経験。戦時中は勉強らしい勉強はできず、終戦後、念願の女学校でやっと学ぶことができ、ノートを自作しては働きながら学んだ。「めまぐるしいばかりの時代。本当に大変な時代を生きてきました」(阿部江利)

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 第2部は、激しい揺れや猛火を記録する史料や遺物、所有者にまつわる物語を3回にわたって紹介する。

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