「野球中華思想」を排す(下) スポーツ2023 その3

林信吾(作家・ジャーナリスト

林信吾の「西方見聞録」

【まとめ】

・地球規模で見たならば、野球はマイナーなスポーツだ。

・そのあたりのことを理解できていない日本人が多い。

・日本以外で将棋など見たことも聞いたこともないと言う人が圧倒的多数。

1984年、ロサンゼルス五輪での話である。

台湾対米国の野球の試合に、中国選手団が大挙応援に駆けつけ、野球のルールなど分からないのに、台湾選手の一投一打ごとに拍手と大声援を送り続けた。

これは、政治的な対立関係を超えた民族の連帯感を示すものと、当時まことに好意的に取り上げられたのだが、実際のところは「政治利用」だったのではあるまいか。

1980年に開催されたモスクワ五輪を、前年のソ連邦(当時)によるアフガニスタン侵攻に抗議するためとして、日本を含む西側諸国およびイスラム諸国の多くがボイコットし、その報復として当時の社会主義諸国がロサンゼルス五輪をボイコットするという事態が起きていたこと、そのような中でも中国は資本主義諸国との融和路線にいち早く舵を切り、五輪にも参加していたことから、中国と台湾の融和も期待できる、というように。

実はこれ、拙著『野球型VS.サッカー型』(葛岡智恭と共著、平凡社新書。電子版アドレナライズ)の冒頭で取り上げた話題なのだが、このテーマにおいて避けては通れないので、あえて再録させていただくことにした。

なにを読者にお伝えしたかったのかというと、前述の政治的な問題以上に、中国においては五輪に参加できるレベルのアスリートでさえ、野球のルールを知らなかった、という事実である。

これまた前掲書で取り上げた話題を採録させていただくと、20世紀の終わり頃、上海など大都市で暮らす中国人を対象とした調査では、マンチェスター・ユナイテッドというサッカーのクラブについて、およそ8割もの人が「聞いたことがある」と答えたのに対し、野球のルールを知っている人は皆無に近かったそうだ。

そのような中国にも、今ではプロ野球が存在するのだが、所属しているのは4チームで、年間試合数も30にとどまる。これでどうしてプロを名乗れるのか不思議だが、旗揚げされたのが2019年のこととであるから、新型コロナ禍の影響という要素も考えられるし、今後のお楽しみ、といったところだろう。ただし野球ファン限定だが笑。

一方、中国のプロ・サッカーリーグ中継は7億人近くが視聴すると言われている。

他のスポーツに目を向けても、世界一の卓球王国であることは日本でもよく知られているし、バドミントン人気も高い。

都市部では多くの人が、健康増進のためにと、朝の公園などで太極拳にいそしんでいることは、これまた日本でも知られているが、観戦スポーツとしての中国武術も、なかなかの人気であると聞く。

ヨーロッパにおいても、かつては野球などなきに等しいスポーツだと言われていたものが、最近では様変わりしてきているようだ。

たとえばサッカー大国イタリアだが、野球のプロリーグもあって、しかもサッカーと同じくセリエAと呼ばれている。所属チームも30を数え、大リーグ並みの規模だ。

とは言え、トーナメント方式に近いため年間の試合数は36でしかない。選手の平均年俸も邦貨にして50万円程度に留まるそうで、やはりこれでは、プロを名乗るのは無理があるのではないかと思える。とは言え今年初旬のWBCではベスト8に進出したほどで、実力はなかなか侮りがたい。

もうひとつのサッカー大国であるオランダだが、この国のリーグはアマチュアながら、WBCのランキングではキューバやベネズエラと7位を争っている。ちなみに日米の他、台湾、韓国、メキシコがベスト5だ。

元ヤクルトスワローズの選手で、2013年に最多本塁打(60本)を記録したウラジミール・バレンティンがオランダ国籍だが、当人はカリブ海のキュラソー島(オランダ領)というところで生まれ、16歳でシアトル・マリナーズとマイナー契約したという経歴の持ち主であるから、オランダ野球の底力の象徴と見なすのは無理があるだろう。

そもそもサッカーにおけるFIFAランキングと同様、野球の世界ランクというのも、基準がよく分からない。FIFAランキングについては後であらためて見よう。

面白いのはイングランドで、かの地ではクリケットが非常な人気を博している。

サッカーと人気を二分する……と言いたいところだが、本当はもう少し複雑な背景があって、伝統的に労働者階級はサッカー、中産階級はクリケットやラグビーを好む、ということになっているのである。

前に、日本の企業社会においては「直球勝負」とか「逆転ホームラン」といった野球用語がビジネスの場でも使われていると述べたが、イギリス英語ではルールを無視したやり方を「クリケットではない」と表現する。

クリケットのルールについて詳述する紙数はないが、最長2日間にわたるという、気の長いスポーツである。

そのクリケットを「女子供向けに改良した」ラウンダーズというスポーツがあり、これはソフトボールとよく似ているのだが、ここから野球が派生したと考えられている。

したがってイギリス人に言わせると、野球などというものは

「クリケットまがいのスポーツの、そのまた亜流」

とでもいうことになるらしい。実際、かの国の民放が深夜枠で大リーグ中継を放送したことがあるが、視聴率はまるで上がらず、すぐ打ち切りになってしまった。

野球のリーグもあるにはあるが、当然ながらアマチュアで規模も小さい。

米国で野球が盛んになったのは、まあ理由は単一ではないと思われるが、前述のような事情から、クリケットやラウンダーズに比べて、よりエキサイティングなゲーム展開だからということも、ひとつ考えられる。

どこの国とまでは言わないが、これだからアメリカンは……といった声が聞こえてくるような気もするが、その話はさておき笑。

サッカーにせよ、実はこの呼称が定着しているのは米国と日本くらいなもので、世界的にはフットボールと呼ぶのが一般的だ。米国ではフットボールと言えば、防具を着けて行うアメリカン・フットボールを指すので、区別のためにサッカーという呼称が用いられている。

過去100年間の、日本と米国との特別な関係性から、日本でもサッカーという呼称が定着したのだ。明治時代に英国から伝わった当初は、アソシエーション・フットボールを略して「ア式蹴球」などと呼ばれていた。

野球はどうなのかと言うと、ベースボールをこのように訳したのは正岡子規だと広く信じられていた。本当は(旧制)一高ベースボール部にいた中馬庚(ちゅうまん・かのえ)という人物が、野球用語の数々を日本語にした。たとえばショート・ストップを「遊撃手」と名づけたのも彼である。1970年に野球殿堂入りした。

正岡子規はと言えば、本名の升(のぼる)にひっかけた「野(の)ボール」という、訳語というより落語に出てくるようなダジャレを考えたに過ぎない。

いずれにせよ地球規模で見たならば、野球などマイナーなスポーツだと言えるのだが、そのあたりのことを理解できていない日本人が多い。

この原稿を書いている27日、将棋の藤井聡太7冠が、王位戦で見事な逆転勝ちをおさめ、前人未踏の8冠独占に王手をかけた。

今や日本では、将棋のルールなど知らない人でも彼の名前は知っているが、日本以外では将棋など見たことも聞いたこともない、と言う人が圧倒的多数である。

サッカーのレジェンドたるクリスチャーノ・ロナウド選手に対して、

「ショウヘイ・オオタニをどう思うか」

などと質問した日本のTVレポーターが、どうして愚かしく思えるか、これでお分かりだろう。世界的なチェスの選手をつかまえて、

「ソウタ・フジイをどう思うか」

と質問するようなものである。これでは中華思想どころか「井の中の蛙」ではないか。

トップ写真:クリケットのエイジアス・ボウルで行われたLV=インシュアランス・カウンティ・チャンピオンシップ・ディビジョン1のハンプシャー対サリーの試合2日目でのサリーのサイ・スダルサン(2023年9月27日 イギリス・サウサンプトン)

出典:Ben Hoskins/Getty Images

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