フロンターレで受けた“洗礼”。瀬古樹が苦悩の末に手にした「止める蹴る」と「先を読む力」

瀬古樹は明治大学を卒業後、横浜FCに加入。即戦力としてJ1の舞台で躍動し、2年目の夏からは主将としてもプレーしている。「自分が対戦相手に脅威を与える存在になれていた」と実感していた自信は、2022年の川崎フロンターレ移籍で打ち砕かれる。瀬古は昨季、13試合しかリーグ戦に出場することができなかった。「自分にとって一番高いはずの基礎技術が、フロンターレでは一番低いと思うくらい足りていなかった」という移籍当初の絶望感と苦悩、そして覚悟を決めて改善に取り組んだ軌跡を振り返る。

(インタビュー・構成=原田大輔、写真提供=©️川崎フロンターレ)

明治大学・瀬古樹と川崎フロンターレの“縁”

瀬古樹と川崎フロンターレの“接点”は、横浜FCから加入した2022年よりも、ずっと前にあった。プロになる決断や契機になったのも、川崎フロンターレだったと言えるくらいに――それを人は“縁”と呼ぶのかもしれない。

2019年7月3日、天皇杯2回戦。当時、明治大学に在籍していた瀬古は、等々力陸上競技場で川崎フロンターレと対戦した。

「いろいろな意味で手応え半分、悔しさ半分というか。ただ、天皇杯で川崎フロンターレと対戦したことが、自分のその先につながりました」

大学4年生になり、ボランチとして、ゲームキャプテンとして、関東大学1部リーグで活躍するようになった瀬古は、スカウトも注目する存在へと成長していた。

明治大学の栗田大輔監督とは「J2以下のカテゴリーからのオファーしかなければ、プロにはならずに就職します」と、約束を交わすほど、具体的な指標を定めていた。

「当時J2だった横浜FCのスカウト担当(当時)だった増田功作さんが、試合を見に来たときに声を掛けてくれて。その後、横浜FCと練習試合をしたあと、オファーをもらいました。増田さんは、僕に対して横浜FCを説明、要はプレゼンしてくれたのですが、その熱量がまたすごかったんです。横浜FCからオファーをいただいたこともあり、就職という選択肢を捨てて、サッカーに道を絞ったタイミングで、天皇杯が始まりました」

天皇杯1回戦では、当時J3だったブラウブリッツ秋田と対戦して、明治大学は3−0で勝利する。2回戦で川崎フロンターレと対戦することが決まったときには、栗田監督からアドバイスをもらっていた。

「フロンターレと試合をしたときに、いいプレーをすれば、J1のクラブからも声が掛かるかもしれないぞ。だから、その試合が終わってから、いろいろと考えを整理して、進路については決めればいいんじゃないか」

試合は0−1で敗れたが、今はチームメイトになったレアンドロ・ダミアンや車屋紳太郎、山村和也らと同じピッチに立った瀬古は、刺激を得ると同時に、強い悔しさを覚える。

「できた部分もありましたが、どちらかといえば、やっぱりできなかったこと、悔しかったことが多かった試合でした。大学サッカーとは違い、フロンターレは守備にしても整っていた。大学のリーグ戦では感じることができなかったスキのなさがありました」

肌で感じたJ1のレベルは、1日でも早くその世界に飛び込みたい、近づきたいという欲へと変わった。 「だから、フロンターレとの試合を終えてすぐ、栗田監督に『横浜FCに決めます』と返事をしました。決めたことで自分のなかでまた一つスイッチが入って。すぐに特別指定選手にしていただき、平日は横浜FCで練習し、週末は大学に戻ってリーグ戦を戦う生活を送りました」

成長を遂げた横浜FCへの“感謝”。フロンターレで受けた“洗礼”

2019年、横浜FCがJ1昇格を勝ちとったこともあり、「J2の選手としてプロになると思っていた」瀬古は、J1でプロのキャリアをスタートさせた。大卒1年目から即戦力として活躍すると、横浜FCで過ごした2年間で、それぞれリーグ戦33試合に出場した。

「プロ2年目は、半年間だけですがキャプテンも務めさせてもらって、チームに対する思いも増し、クラブの関係者含め、ファン・サポーターから自分への期待も感じていました。チームをJ1に残留させることができなかった責任も含めて、本当に苦渋の決断でしたが、自分の年齢やサッカー選手としての目標を考えて、最終的には自分の人生を選ばせてもらいました」

2022年に川崎フロンターレへと移籍した経緯をそう明かす瀬古は、成長の足跡を刻んだ横浜FCへの感謝も忘れなかった。

「横浜FCのファン・サポーターからは批判されることも覚悟のうえの決断だったのですが、批判どころか、逆に上り詰めるところまで上り詰めてほしいといった背中を押してくれる声ばかりが届きました。だからこそ、自分のなかでは、恩を返しきれないというか。自分でも行けるところまで行ってみようと思う、後押しになりました」

それだけに川崎フロンターレに加入した昨季、リーグ戦13試合に“しか”出場できなかった結果と事実は、彼にとって悩ましくもあり、もどかしくもあっただろう。

「欲もありましたし、自信もありました。横浜FCであれだけ試合に出させてもらって、自分が対戦相手に脅威を与える存在になれていたかを考えたとき、決して戦えていなかったとは一度も思わなかった。その自信が上を目指したいと思わせてくれる原動力にもなっていたんです。もちろん、簡単に自分がフロンターレで試合に出られるとは思ってはいなかったですけど、ここまで試合に絡めないものかという思いはありました」

では、瀬古は昨季、なぜ試合に出場することができなかったのか。「考えたし、考えさせられる時間だった」と振り返る、彼に問いかけた。

「それは技術の部分です」

理路整然と話す瀬古が、珍しく語気を強め、荒々しい言葉で言った。

「本当に『足りねえ』って思いました。育成年代も含めて技術を武器にしてきた自分が、『こんなにも技術が足りない?』って思わされましたから」

さらに瀬古は語る。

「プロサッカー選手に必要な項目をパラメーターとして挙げたとき、自分にとって一番高いはずの基礎技術が、フロンターレでは一番低いと思うくらい足りていなかった。だから、プレーしていてアイデアは浮かぶのに、それを実行できなかったんです」

何とも的を射た表現だった。頭のなかでは、想像やイメージがいくつも膨らむが、技術が足りないがゆえに、スピードや判断が追いつかなかったのである。

「ヤスくん(脇坂泰斗)や(大島)僚太さんと比べると、自分はまったくボールが止まっていなかった。ボールが止まっていないから、例えばですけど、そこだとか、あそこだってわかっているところにパスが出せなかった」

会得するまでに「1年みっちりかかった」止めて蹴る

ボールを止めて蹴るという基礎における、固定観念の違いもあった。

「僕個人は、それまでボールを完全に止めてしまうと、その瞬間に相手に食われてしまうイメージが強かった。だから、ボールを動かしながら止めていたと表現すればいいですかね。その感覚の違いに、最初は体が違和感を覚えたくらいでした」

克服、改善するためには、練習して新たな習慣や意識を身体に染み込ませていくしかなかった。

「フロンターレの練習動画でもたびたび紹介されているような、パス&コントロールの練習をひたすらやりました。狭い範囲でコーチ陣からのパスを受けて、トラップして送り返すあのメニューです。加入した直後のキャンプでも、何でみんなはそんなにポンポンとできるのかと戸惑いました」

プロ2年目の今季、それが身体に染みついたのは、チームの全体練習後、いつも残って練習に付き合ってくれた戸田光洋コーチのおかげだと感謝する。

「だから、ミツさん(戸田コーチ)には頭が上がらない。今季、昨季よりも試合に出場できる機会が増えたのは、その練習があったから。おそらく、居残り練習をしていなければ、今も昨季と状況は変わっていなかったと思います」

そう言って瀬古は日々を思い出す。

「最初は、みんながよくやっているボックスのなかで、止めて蹴るをやるんですけど、笑えるくらいボールが止まらないんですよね。それが続けていくことで、だんだんと止まるようになっていく。すると、今度は角度を変えて、パスを出す練習をする。それができるようになると、今度はダイレクトやワンタッチと指示に反応してパスができるように対応していく。他にも視野が狭くならないように、遠くでグー、チョキ、パーを出してもらって、それに即してあらかじめ決めていたプレーを選択するとか、本当にいろいろな形にトライしました」 会得するまでには、やはり時間は必要だったのかと、再び問いかける。「自分は1年みっちりかかったと思っています」と、即答した。

成長の証。できないことよりもできることに目を向けられるように

シーズンオフには時間の許す限り、自分自身を省みた。

「ひたすら試合の映像を見て分析しました。自分が出ている試合、出ていない試合を見比べて、なぜ自分のプレーはダメだったのか、また、このチームではどういうプレーが求められているのかを知ろうとしました。(自分がいないときは)チームがどう機能しているのか、どう回っているのかも全部、見て、頭のなかで整理しました」

口で言うのは容易いが、相当な時間を費やしたはずだ。

「その結果、頭が整理されて、すっきりした状態で今季はキャンプに入ることができました。これをすれば、こうなるという答えがわかるようになったというか。自分がこういう動きをすれば、チームメートが助かる。自分がこういうプレーをすれば、味方がこう動くから、結果的に自分が目立てるということがわかった。それを実行すると、どんどんうまくいって、『俺できるぞ』という気持ちが湧いてきました」

いわゆる、試合やプレーの先の先が見える、読めるようになったのだろう。

4−3−3のアンカーではなく、インサイドハーフでプレーする機会が多い今季、頭の中が整理された瀬古が、自身のプレーについて言及する。

「インサイドハーフとしての走る動き、タイミング、ボールを受ける場所。止まる、動くも含めて整理しました。ボールに対する関わり方も、昨季は逆サイドでプレーが続いているときは、自分の持ち場を離れないように、見てしまっていることが多かったのが、今は逆に、近寄っていったり、わざと離れたりするようにしています。フロンターレの選手たちはみんな、そういう立ち位置が整理されているんです」

出場機会が増え、チームの勝敗に関わっているという強い責任感は、同時に危機感にもつながっている。

「昨季は正直、チームが試合に負けなければ、出場機会を得ることはないと思ってしまった自分もいましたが、今は自分がこれだけ試合に出て、勝てないということは、自分に原因があると思うし、まだまだ足りない、変えなければいけないということだと思っています」

インサイドハーフとして隣でプレーする脇坂が、ゴールという数字を残しているのを見て、「近くでプレーを盗みたいと思う反面、自分もそれだけの結果を示さなければいけない」と、心に誓っている。

川崎フロンターレのプレースタイルが染みつき、すでに確立されている脇坂と比べれば、のびしろは瀬古にあるといえるだろう。瀬古の成長こそが、チームを浮上させるといっても過言ではない。

「オニさん(鬼木達監督)にも似たようなことを言われました。今季、チャレンジするプレーが増えているのは評価しているけれども、一方で失敗すればチームに迷惑を掛けることになると。でも、それを成功させれば、誰にも文句は言われないって」

指揮官からプレーに責任を託されている証でもある。

チャレンジに見えるパスは、通れば大きなチャンスになる。強気に見えるドリブルも、突破できれば、大きく状況を打開する。プレーが整理され、試合の先の先が見えるようになった。次は、自分の持ち味であるチャレンジ精神宿るプレーを“絶対に”成功させるという気概と精度だろう。

大学生だったとき、等々力のピッチで、でできることよりもできないことばかりに目を向けていた瀬古は、今、等々力のピッチで、できないことよりもできることに目を向けられるようになった。

瀬古のプレーの精度が、川崎フロンターレを押し上げる。

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<了>

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[PROFILE]
瀬古樹(せこ・たつき)
1997年12月22日生まれ、東京都出身。サッカー・J1リーグの川崎フロンターレ所属。三菱養和SC、明治大学を経て、2020年に横浜FCに加入。2021年は絶対的な中心選手として活躍し、夏以降は主将も務めた。2022年に川崎フロンターレに完全移籍で加入。正確なキックやドリブルセンスを武器に、チームの攻守のリズムを作るMF。

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