大河『家康』小田原城攻め 秀吉&家康の「関東の連れ小便」逸話にならってほしかった? 識者が語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第37話は「さらば三河家臣団」。小田原の北条氏は、天正16年(1588)になっても、未だ豊臣秀吉(ムロツヨシ)に臣従していませんでした。よって、豊臣政権のなかでは、対北条氏強硬論が幅を利かせていきます。そうしたなか、北条氏への対応に苦慮していたのが、豊臣重臣・徳川家康(松本潤)です。家康は、次女の督姫(母は西郡局)を、北条氏直(北条氏5代目当主。父は氏政)に正室として嫁がせていました。

政権内部で北条氏への強硬論が強まる中、家康は北条氏直・氏政親子に起請文(誓約書)を送っています。それは「北条親子のことを、秀吉の前で悪様に言わない。北条の領国を一切望まない」「本年中に氏政の兄弟が上洛すること」「もし、秀吉に出仕しないのならば、娘・督姫を返して欲しい(つまり、離縁して欲しい)」との3ヶ条の内容でした。

北条氏とは現時点では、縁戚関係にあるので、まずは、北条氏を秀吉に出仕させ、事を穏便に済ませたい。しかし、北条氏に秀吉に仕える気がないのならば、同盟関係を破棄する。家康は強い態度で、北条親子に選択を迫ったのです。

結局、北条氏は、同年8月、氏政の弟・氏規を上洛させることになります。これにより、北条氏は豊臣氏に臣従したものと一応見做され、北条氏と真田氏が帰属を巡って争っていた上野国沼田領の「国分」(くにわけ)が、秀吉により行われます。それは「真田氏が持っている沼田領の3分の2は、沼田城と共に北条氏のものとする」「残りの3分の1は、真田氏のものとする」「北条氏に宛てがわれる3分の2に相当する替地は、家康が真田氏に補償する」との内容でした。北条氏はこの裁決に不満がありましたが、北条氏直は受け入れます。

これで一件落着と思いきや、沼田城に入った北条氏の家臣・猪俣邦憲が、真田氏の名胡桃城(群馬県みなかみ町)を奪うという事件が起こるのです(1589年10月)。秀吉は、北条氏の行為に怒り、氏直に「最後通牒」を突きつけます。が、北条氏は強気の姿勢であったことから、秀吉は「小田原征伐」を決意。天正18年(1590)2月、家康も豊臣方として出陣します。豊臣方は20万の大軍。小田原城は名城といえども、敵うはずはありませんでした。

北条方の諸城は陥落。追い詰められた北条氏直は、ついに降伏します。氏政は切腹。その子・氏直は家康の娘婿であったので、助命され、高野山へ追放となりました(1591年、死去)。5代にわたり関東に勢力を誇った北条氏ですが、秀吉の軍事力を甘く見たために、ついに滅んだのです。

ドラマの中で、小田原城攻めの最中、秀吉が立ち小便をする様が描かれていました。この逸話は有名なものですが、『関八州古戦録』(江戸時代中期に成立)との軍記物に基づくものです。秀吉は家康と石垣山から小田原城を眺めつつ「北条氏は程なく滅亡する。そうなれば、関八州はそなたに進ぜよう」と言うと、敵城に向かい立ち小便をしたといわれます。

同書によると、家康もこの時、秀吉と共に小便をしたのですが、ドラマではさすがに松潤家康は放尿しませんでした。「関東の連れ小便」(関東の人間は一人が小便をすると、同行者もならって小便をするという意味)の語源となった有名な逸話ですので、家康にも立ち小便して欲しかったですね。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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