池松壮亮「快楽主義だけの創造に意味はない」異色の2役に挑んだ『白鍵と黒鍵の間に』は“時代の隙間を埋める2時間”に

池松壮亮

池松壮亮が見つめる映画の創造性

『シン・仮面ライダー』『せかいのおきく』『季節のない街』『白鍵と黒鍵の間に』『愛にイナズマ』――2023年は、池松壮亮の出演作が怒涛の勢いで世に放たれる。どれも強い作家性に満ち、映画やドラマの可能性を感じさせるものばかり。

そんな中、まもなく公開を迎える『白鍵と黒鍵の間に』では、1人2役を演じた池松。だがこの1人2役、別人ではなく1人の人物を「南」と「博」に分けた独特のものとなっており、さらにピアニスト役でもあるため、池松は半年もの期間を練習に費やしたという。ただそうした苦労を、彼自身は声高に語ることはない。その思考と視線は、もっと根源的な「映画とは何か?」というものに向けられているように感じられる。

BANGER!!!では、そんな池松に「大学時代/夢」「映画文化」「創造性」といったテーマで、深遠なる思索の一端を明かしてもらった。

ページ分割:バカにされるくらい映画のことを考えてきた

「人からバカにされるくらい、ひたすら映画のことを考えてきた」

―冨永昌敬監督と池松さんは日藝の先輩・後輩関係ですね。池松さんの大学時代の経験は、今のご自身のどういう部分に生きていますか?

大きな声では言えませんが、実は大学には、あまり真面目に行っていなかったんです。朝家を出ても、なかなか学校にたどり着けなくて。道中でどうしても喫茶店や映画館に入ってしまう日々を過ごしていました。真面目に勉強してというよりも、「自分はどんなものが好きでこれから何をやっていきたいのか、そもそも映画とはなんなのか、自分はどんな俳優になりたいのか」を4年間悶々と考えていたような気がします。どこか社会に出る前の時間稼ぎをしているような感覚でした。

―でも、それが大学生の特権でもありますよね。豊かなモラトリアム期間といいますか。

高校を卒業してすぐ社会に出るのとでは、大きく意味が違ってきますよね。もちろん授業では専門的な学びも経験しましたが、自分の中ではあの4年間の“許された空白”、『白鍵と黒鍵の間に』で言うところの「人生の隙間」があったからこそ、映画や自分と向き合うことができました。卒業したら俳優業をとことんやろうと決めて、在学中はなるべく制限していました。

―『白鍵と黒鍵の間に』でのティーチインや、藤井道人監督との「日藝100周年記念動画」ほか、母校とのコラボレーションも近年増えている印象です。

こんな自分をゆったりと見守って4年でなんとか無事に卒業させてもらえました、今は出来る限りの恩返しをしたいと思っています。自分が学生だった時の気分や苦しみも覚えていますし、何より年々志す若者の数が減りつつある日本映画に、たくさんの才能が育ってほしいと願っています。微々たる力ですが、自分が伝えられることがあればこれからも伝えていきたいと思っています。

―池松さんは本作で「夢を追う博」「夢を見失った南」の2役を演じていらっしゃいますが、ご自身にとって「夢」とはどのように付き合ってきたのでしょう。目標を立ててそこに向かって動いてきたタイプなのか、目の前のものに取り組む中で見えてきたのか……。

どちらかというと前者だと思います。「こういう俳優でありたい」「こういう映画に携わりたい」といったような漠然とした夢や目標をイメージしながら日々を過ごしてきました。そういった意味では、夢を失ったことはありません。モチベーション自体の波はもちろん時期によってありますが、多分人より少ない方だと思います。人からよくバカにされたくらい、いつもひたすらに映画のことを考えていたんだと思います。今でもそうで、自分ではそれが普通のことなんです。

ミニシアターで追求していくべき「多様性」

―映画のことをひたすら考えていく中で、「映画文化の次世代への継承」についてはいかがですか?「若いお客さんを育てる」をなかなかできないまま、コロナ禍に入ってしまい苦境に立たされている印象があります……。

本気でそのことに危機感を持って様々に取り組んでいる人たちが一部いますが、業界全体としては自分たちで次世代を切り捨ててきました。目先の利益追求で、業界的なことより私腹を肥やすことばかりで、外向きには業界が盛り上がっているかのように見せてきました。自分たちで排除してきた客層や心が、必ずあります。お金も夢もない業界にしていては全体として貧しくなっていく一方ですし、次世代に継承することは難しいと思います。

―なるほど……。

コロナ禍ではミニシアターがどんどん潰れていって、映画館や映画そのものの価値が問われ、映画における多様性の危機を経験しました。シネコンもミニシアターもどちらも好きな自分にとっては、なんとかミニシアターに存続してもらうために自分ができることは何なのかということが、これからのキャリアにおいて取り組み続けるべき課題の一つのようにもなりました。昨年公開の『ちょっと思い出しただけ』に引き続き、本作もその問いの一環の中で取り組んでいるようなところがありました。

『白鍵と黒鍵の間に』は、端的にいうと、「誰かの人生のほんの隙間を埋める」ことが、この作品にはできるかもしれないと思いました。南や博の人生を音楽が埋めていたように、映画には誰もの人生の連続性の狭間に生じる“間”を埋める力があると信じています。

創造性とは、人間に与えられた可能性

―池松さんは、本作に挑むうえで参考にした映画のひとつに『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』(2013年)を挙げられていましたね。

『白鍵と黒鍵の間に』も『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』も、まだ何者でもないミュージシャンを描いているところに共通点があります。オスカー・アイザック演じる、まだ何者でもないミュージシャンの日常を見ていると、なぜかものすごく豊かに感じられて、誰かの伝記映画を見るよりも、より自分たちも含めた人の人生そのものが見えてくる。普通は物語にならないような何気ない断片的な日常を描くことで、そういった効果が生まれているとてもユニークな映画でした。音楽映画としてのセンスも抜群で、とても好きな映画です。

―『白鍵と黒鍵の間に』は映画・音楽・文学といったカルチャーのるつぼ的な作品であり、「過去・現在・未来」が一夜に凝縮された特異な構造の映画でもあります。

ほんとによく思いついたなと思いました。この世界を語る方法は常にあるんだということを冨永さんは証明してくれます。この映画は過去→現在→未来の3年間ごとの9年を経たうえで、もう一度始まりに戻って博がピアノを弾くところにいきつきます。これ以上詳しくはぜひ劇場で観ていただければと思いますが、あの始まりのためにこの映画の94分間があるとも言えると思います。夢を追う人にとって人生というのはいつだってままならないし、そういう人生の不完全性を受け入れたうえでまたピアノを鳴らしはじめるということに、この映画の真の意味があるような気がしています。

―本作は「意匠を感じる作品」とも言えますが、意匠であり創造性、つまり「クリエイティブ」とは池松さんの中でどういったものでしょう?

人のもつ、創造性と可能性だと思います。そうした果てしない創造性が映画にとって、それから社会にとってどう作用してくるのかを、きちんと見極めていかなければいけないと思います。創造性だけで作っていけた時代と今この世界は違いますし、快楽主義だけの創造性が意味をなさないということは時代が証明していると思います。これからの創造性がどこにあるのかはわかりませんが、映画に限定しないならば、あらゆる分野において本格的に「肉体を離れていく」ことに向かうのかなと感じています。

コロナ前からの世界の激動、コロナや今なお止まない戦争――世界が大きく、しかしゆっくりと変化を迎える最中の、この世界の静寂や沈黙をもし「時代の隙間」とするならば、でも「映画があるじゃないか」と思ってもらえるような、そういう作品になってくれることを願っています。

取材・文:SYO

撮影:落合由夏

スタイリスト:Babymix ヘアメイク:FUJIU JIMI

『白鍵と黒鍵の間に』は2023年10月6日(金)より全国ロードショー

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