200勝の記念球は入団交渉の「道具」に・東尾修さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(27) 

1988年6月の阪急戦で力投する東尾修さん=西武

 プロ野球のレジェンドに現役時代や、その後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第27回は東尾修さん。与えたデッドボールは通算165個で、2位に21個の差をつける断トツのプロ野球記録です。打者の懐を攻めるスタイルは、当時の最強打者の1人を封じる策の中から新しい武器も生み出しました。(共同通信=中西利夫)

 ▽内角へ徹底的に投げないとコーチから怒られた

 西鉄に入団して1年目、真っすぐが全然通用しないと現実を見て分かってきました。スライダーという球種をプロに入って初めて自分が試そうとして、その近くにスライダーピッチャーの池永正明さんがいました。あの人の考え方とか性格が僕の与死球数の日本一につながっています。池永さんの気の強さを目の当たりにして、そういうふうにやらなきゃ勝てないと。池永さんはコントロールとか切れで勝負。身長だって僕より低い。そういう人がいたというのが刺激になりました。僕をかわいがってくれていましたが、その人が2年目にいなくなったんです。(八百長疑惑の)「黒い霧事件」で永久追放になりました(故池永氏の処分は2005年に解除)。チームの絶対的エースがいなくなり、そういう意味で、われわれにチャンスが来ました。数多く投げさせてもらって、1970年は11勝しましたが、18敗の方が勉強したというか、自分がどうしなければいけないかというのを負けて覚えたのです。

西鉄へ入団した当時の東尾修さん=1969年2月撮影

 72年に河村英文さんが投手コーチで来た時、僕には1軍のピッチャーになる最低限の真っすぐとスライダーとカーブしかなく、そんなに球を操ることもできませんでした。河村さんは気が強く、インサイドへ徹底的に放らせ、投げないと怒られました。河村さんは(現役時代に)シュートが得意でしたから。僕と加藤初さんの2人はインサイドに投げないと勝てないと、やかましく言われました。72年は18勝25敗でした。25敗は勲章ではないです。18勝しましたがチーム力も弱く、数多く投げているからです。登板数は55試合。先発は41試合もありました。今では考えられないような数です。300イニング以上投げて、体が壊れなかったというのが一番でした。

太平洋クラブ時代の東尾修さん=1974年撮影

 ▽1死三塁で空振り三振が取れないなら

 僕は2、3年目で自分の生きる道は速球派ではないと分かりました。なぜかと言うと、いい打者は自分の真っすぐを空振りしてくれないのです。そういういろんな経験があるから、一つ一つの球種を磨くしかありません。右打者のインコースにスライダーを投げ始めたのはアイデアと言えます。コントロールとか技術が身に付いてきたからこそ、右打者へのインスラ、左打者への外角スライダーを投げ始めました。
 阪急(現オリックス)の4番に長池徳士さんがいて、この人をやっつけるための発想が広がったものです。阪急には(盗塁王の)福本豊さんがいたから、すぐ1死三塁になります。そういう状況の時、僕は空振り三振を取れません。内野ゴロを打たせるか見逃し三振を取るために、打者が長池さんの時どうするか。捕手、スコアラーと話をして、シュートがあるんだからと、反対にスライダーを入れて成功しました。長池さんはちょっと踏み込み、インサイドをものすごくオーバーに逃げます。僕にシュートが多いイメージがあったから。シュートを放って、同じ所からスライダーだったら、ポッと逃げるから見送って三振です。

1984年9月の南海戦で通算200勝を達成し、笑顔でファンにこたえる東尾修さん=西武

 それを今度は左打者にも使いました。いいバッターに限って、弱点はボールからストライクになる球。選球眼がいいから一番打ちづらい。左打者の外から入れるスライダーは球審によって誤差が大き過ぎます。だからキャンプの時にストライクだと(審判員に)見せるのです。そういった準備をちゃんとやっていました。

 ▽一番気になるのは投手の柔軟性

 僕は34歳で200勝です。もちろん目標でしたが、名球会ができたのは僕が28歳の時。意外と近かったから、普通通りやっておけばできるだろうと。また、チームが優勝をどんどんしている頃だったので、200勝を超えたら、もう個人の目標はあんまりありませんでした。
 200勝の記念球は結果的に松坂大輔にプレゼントしました。僕はスカウト資格を持っていたので、入団交渉に行けるわけです。僕とスカウト部長が両親と大輔とで食事をする時、200勝のボールを持って行こうと思いました。いろんな話をしていうるちに「このボール。どう思うか」って渡したんです。どう感じるか、重いとかいろんな感じ方があるから、持って帰れと。悪く言えば、西武に入団させようとボールを道具にしました。大輔は、まさか持って行けと言われるとは思っていなかったんじゃないですか。

1998年12月、入団が決まった松坂大輔投手にボールを渡す西武監督時代の東尾修さん=東京都内

 200勝する投手が、ほぼいなくなってきました。昔は全部1年契約で、勝たないと駄目だというのがありました。僕らの時代はエースがマウンドへ行ったら最後まで投げるのが当たり前のこと。途中で代えられるのはプライドが許しません。
 今はスポーツ医学、サプリメント、食事、健康を管理する人、トレーナー、これだけ環境に恵まれているのに、200勝に届かないというのは何なのでしょうか。投手にとって、例えば1点差で七~九回を抑えるというのが一番つらい。だから、そこに中継ぎやストッパーがいるのです。でも、いつも不思議に思っています。完投しなくてもいい、苦しいのを投げなくていい、100球とか110球とかで交代。ちょっと、その辺が残念です。
 投手の平均身長が大きくなって、動きや投げ方の硬い選手が多いです。一番気になるのは体の柔軟性はどうかということ。肘、腰、いろんな関節が柔らかいのは長生きする条件です。硬いと、どこかに負担がかかります。全体的な柔らかさというのは大事だと思うのです。ウエートトレーニングでつくった筋肉は投手にとって邪魔になってきます。

2018年4月のソフトバンク戦で西武OBとして始球式を務めた東尾修さん=メットライフドーム

 体脂肪を落としているとか言いいますが、50キロから100キロを挙げられるようになったからといって、ボールが速くなるのでしょうか。やっぱり走る、下半身を強くする、土台を育てるです。上半身が大きくなっては、体が鋭く回転できなくなります。「餅は餅屋」です。投げてできる筋肉は2軍の試合で投げても緊張感がないから大きくなりません。1軍で投げると野球の体は自然と大きくなります。1軍で1年間投げたら、ぐっと大きくなるのです。やっぱり緊張感の中でやっているからでしょう。

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 東尾 修氏(ひがしお・おさむ)和歌山・箕島高から1969年にドラフト1位で西鉄(現西武)入団。75年に23勝で最多勝。名球会入り条件の200勝は84年9月に達成した。83年と87年はパ・リーグ最優秀選手に輝くなど西武の黄金期まで活躍し、88年に引退。通算251勝247敗23セーブ。95年から西武監督を7年間務め、リーグ優勝2度。50年5月18日生まれの73歳。和歌山県出身。

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