唯一の「自衛隊違憲」判決から50年、長沼ナイキ訴訟を担当した93歳元裁判長の憂い 厳しさ増す安全保障環境、続く自衛隊の機能拡大…それでも言いたいこと

長沼ナイキ基地訴訟で、自衛隊違憲の判決を下した札幌地裁。奥中央は福島重雄裁判長=1973年9月7日

 「自衛隊は軍隊であり、憲法9条が保持を禁ずる戦力に該当する」。1973年9月7日、日本の裁判史上唯一、自衛隊の存在を違憲とし、憲法9条をめぐる判例として教科書にも登場する長沼ナイキ基地訴訟の一審札幌地裁判決から、今年で50年を迎えた。政府は近年、厳しい安全保障環境を理由に集団的自衛権の行使を容認し、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有を決定。自衛隊の姿は大きく変わり、「平和国家」のあるべき姿が問われている。判決を言い渡した元裁判長で、93歳の今も現役弁護士として活動する福島重雄さんの思いを聞き、裁判の舞台となった北海道の長沼町を歩きながら、判決の意味を改めて考えた。(共同通信=西尾陸)

 ▽エリート軍人養成校に進学、15歳で迎えた終戦

取材に応じる、札幌地裁の裁判長として長沼ナイキ基地訴訟の一審判決を言い渡した福島重雄さん=2023年7月、富山市

 JR富山駅から車で約10分、閑静な住宅街の一角に小さな弁護士事務所がある。事務所のあるじ、元裁判官の福島重雄さん(93)は平日、毎日のように自宅から通勤する。「リタイアしないのですか」と聞くと「生活習慣です。家ですることも特にないですから」と笑う。

 福島さんは1930年、富山市で生まれた。地元の中学校を経てエリート軍人を養成する海軍兵学校に進み、15歳の夏、終戦を迎えた。玉音放送を聞き「もう天皇陛下に言われて戦争することはなくなると、ほっとした」。京大法学部を卒業後、地元富山で裁判所の書記官として働くかたわら勉強を続け司法試験に合格、裁判官に。後の人生を決める自衛隊裁判を担当することになったのは1969年、裁判官として脂が乗り出した38歳の時だった。

 訴訟のきっかけは、北海道長沼町の森林を切り開き、航空自衛隊の基地を建設する国の計画だった。長沼町の住民は明治期の入植開始以降、常に水害に悩んできた。長沼町議の藪田享さん(74)は「多い時で年に2~3回。一度水につかると数日は引かない。その繰り返しだった」と振り返る。

 周辺の森林は、水害の防止などを目的として伐採が制限される「保安林」に指定されていたため、国は基地建設のため指定を解除。基地には、敵機を迎撃するための地対空ミサイル「ナイキJ」の配備が計画された。

 周辺住民は水害の増加を懸念し、計画取り消しを求めて1969年7月に訴訟を起こした。森林法は保安林指定を解除するには「公益上の理由」が必要と定めるが、「そもそも自衛隊の設置は憲法違反なのだから『公益』とは言えないのではないか」と訴えた。高校を卒業し父の農場で働いていた藪田さんも「有事の際に狙われたら…」との思いから訴訟支援活動に加わった。

長沼基地ナイキJのミサイル発射訓練=1973年9月、北海道長沼町

 ▽苛烈な圧力に直面、「自分は自分の仕事をするだけ」
 福島さんは訴訟を担当すると決まった当時から「憲法問題が関わってくるだろうということは考えていた」と振り返る。ただ、その後福島さんに加えられた圧力は苛烈なものだった。

 提訴から約1カ月後。福島さんの自宅官舎に、札幌地裁の平賀健太所長(当時)から一通の手紙が届いた。「さて例の事件について私の考えていることを別紙の通り走り書きしてみました」という書き出しで始まる手紙は、基地建設を滞りなく進めたい国側の主張への配慮を求めるものだった。裁判官は、憲法で「その良心に従い独立して職権を行う」と独立が保証されている。翌月、この「平賀書簡」の存在が報道され、大問題となった。

 それでも福島さんは平静を保ち、自衛隊の合憲性を正面から判断するため、訴訟を進めた。口頭弁論では、憲法との整合性を焦点に、自衛隊の編成や規模、装備などの実態に関する詳細を極めた審理を行い、注目を集めた。源田実元空幕長ら、元・現自衛隊幹部や大学教授ら計24人を証人尋問した。

 1970年には被告の国側が福島さんの政治的中立性に疑問を呈し、裁判官の「忌避」を申し立てるなど、さまざまな形の圧力が続いた。「自分は自分の仕事をするだけ」。福島さんはこの頃の心境をそう説明する。

 ▽「自衛隊は軍隊であり、憲法9条2項が保持を禁ずる戦力に該当する」

長沼ナイキ基地訴訟で、自衛隊違憲の判決を下した札幌地裁の福島重雄裁判長=1973年9月7日

 水害の危険に関する論点などに絞り、憲法問題に踏み込まずに訴訟を終結させることも可能だった。しかし、福島さんは1973年の判決で「自衛隊は軍隊であり、憲法9条2項が保持を禁ずる戦力に該当する」と明確に指摘した。日本の裁判史上、初めての判断だった。ミサイル基地建設は「公益上の理由」ではないと判断、保安林指定解除処分を取り消し、原告住民側の全面勝訴とした。

 また、裁判史上初めて、有事の際には基地が攻撃目標となり、周辺住民の「平和のうちに生存する権利」(憲法前文)が侵害される危険があるとして、この「平和的生存権」を判決で具体的権利として認めた。「憲法判断なしには、紛争の本質的な解決にならなかった」と福島さん。「違憲判決を書いたら冷や飯を食わされるだろうと思いました。裁判所の態勢がそうだから。左遷されれば、辞めて弁護士になろうと思っていました」

 ▽覆った判決、外れた出世コース。今も残る基地
 しかし、この判決は上級審には受け入れられなかった。国側の控訴を受け、札幌高裁は1976年、高度な政治性を持つ国家行為については裁判所の審理対象にならないとする「統治行為論」を展開して、福島さんが正面から向き合った憲法判断を回避。一審を覆し、保安林指定解除を認めた。最高裁は1982年、自衛隊の憲法適合性には触れないまま原告の上告を棄却。国側の勝訴が確定した。

 福島さんは札幌地裁の後、東京地裁の手形部に異動した。その後も、配属を希望していない福島家裁、福井家裁を回り、二度と大きな裁判所の裁判長席に座ることがないまま、定年前の1989年に退官した。福島さん以降、自衛隊の存在自体を違憲とした判決はない。退官後は、郷里の富山市に戻り、公証人として働いた後に弁護士となった。

取材に応じる北海道長沼町の藪田享町議=2023年8月、長沼町

 基地は建設され、現在も航空自衛隊長沼分屯基地として運用されている。基地の目の前で馬が放牧され、周囲に果てしない緑が広がる景色は昔と変わらないが、基地のミサイルは、ナイキJから後継の「パトリオット」に替わった。

 藪田さんによると、訴訟をしていた当時は安全保障上の重要性を説く知人もいて、顔を合わせれば口論になったという。「やがて、お互いに話してもらちが明かない、となった」と語る。訴訟の終結後も住民間の「しこり」は残った。「裁判に意味があったのか、反対派の間にも迷いが生じた。今も当時のことを話したがらない人は多い」と嘆く。

航空自衛隊長沼分屯基地の入り口に立つ看板=2023年8月、北海道長沼町

 ▽「長沼の時より悪くなっている」

 50年の間に自衛隊は大きく姿を変えた。1991年のペルシャ湾派遣を皮切りに、海外活動が増加。2014年の集団的自衛権の行使容認に続き、昨年には反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有が決まり、さらに機能拡大が図られている。

 福島さんは50年前の判決に「間違ったことはしていない。後悔はない」と言い切り、こうした状況を「憲法無視だ」と強調する。

 一方、「世の中がここまで来ると、もう憲法に立ち返るのは無理ではないか」「黙って見逃してきた裁判所の責任もある」ともつぶやく。革新的な判決が相次いだ1960年代後半以降、最高裁から現場の裁判官へ「政治的中立性」を求める圧力が高まった。「長沼のときより状況は悪くなっていると思う。僕の時代は、まだ思想の自由があった。今の最高裁は、僕みたいな違憲判決を書くような裁判官は採用しないでしょう」

 戦後、新憲法を読み「これで日本は平和になった」と感じた。「憲法通りの社会を実現するために憲法を作ったのではないか」と問う。これからの自衛隊、日本の在り方を聞くと「それは若い人たちが考えることです」と答えるのみだった。

 ▽「判決活用のリアリティー増す」

早稲田大法学学術院の水島朝穂教授

 日本の防衛を取り巻く事情が大きく変わった今、自衛隊を違憲とした判決はどのような意味を持つのか。早稲田大の水島朝穂教授(憲法学)は「後の判決や憲法学説に大きな影響を与えた」と評価する。今後、憲法と自衛隊の整合性が鋭く問われる場面を想定し、冷戦時代の50年前より「(活用の)リアリティーが増していると言えるかもしれない」と指摘する。

青山邦夫弁護士

 地裁判決から約35年後、自衛隊について再び憲法問題に踏み込んだのが、航空自衛隊のイラクでの一部活動を違憲とした2008年の名古屋高裁判決だ。長沼判決が初めて具体的権利として認めた「平和的生存権」をさらに発展させ「すべての基本的人権の基礎」と判示。「戦争遂行などで個人の生命、自由が侵害される場合、裁判所に救済を求められる場合がある」とした。名古屋高裁判決の裁判長だった青山邦夫弁護士(80)=愛知県弁護士会=は「札幌地裁判決が平和主義を国民の側から擁護する手段を用意してくれた」と振り返る。

 近年、自衛隊の役割を拡大する方針転換が相次いでいる。水島教授は「台湾有事」などで自衛隊が活動する際に権利を制限された市民が平和的生存権侵害の訴えを起こした場合も、裁判所は具体的にどう判断するか問われると言う。「長沼判決を昔話にしてはいけない」と強調した。

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