加藤清正が池田輝政の母を気遣う手紙発見「容体悪くなられた、使者を出す」 兵庫・たつの市の民家で

たつの市内で発見された加藤清正の手紙を持つ龍野歴史文化資料館の新宮義哲館長=たつの市龍野町上霞城

 江戸時代初期に熊本城主の加藤清正が姫路城主・池田輝政の母の病状を気遣った手紙が、兵庫県たつの市内の民家から見つかった。関ケ原の戦いから4年後の1604(慶長9)年に、輝政の同母弟で鳥取城主だった長吉宛てに書かれたとみられる。市立龍野歴史文化資料館の新宮義哲館長(53)は「秀吉配下時代から親しかった清正と輝政の関係がうかがえる貴重な資料」と評価している。

 和紙に書かれた手紙は縦約36センチ、横約54センチ。本人を示すサイン「花押」は清正の自筆とみられる。「三左衛門殿俄之御下国(輝政殿が急に姫路に戻られたとのこと)」と書き始め、「御母儀御煩乱(お母さまの容体が悪くなられた)」と2人の母・善応院の病状を心配して「御見廻(見舞い)」の使者を出すことなどを告げている。

 清正は輝政の2歳年上で、当時は関ケ原の合戦の論功として共に52万石を与えられていた。新宮館長は「大名間でプライベートなやりとりは珍しいが、筆まめだった清正らしい」と注目する。

 手紙は、たつの市御津町室津に6軒あった本陣の一つ「薩摩屋」の子孫宅から昨年見つかった。江戸時代や明治時代の物が保管されている家具の中に紛れており、新宮館長は「何重にも折られた手紙を開いて、三左衛門の文字が目に入った時には驚いた」と振り返る。輝政の通称は姫路城下の「三左衛門堀」などにも名が残っている。

 この家には「江戸時代に姫路城に出仕した女性の先祖がいて、かんざしを賜った」との言い伝えがあったという。かんざしも今回見つかった品々の中に含まれていた。「手紙もその際に下賜された可能性がある」と新宮館長は推測する。

 手紙は同資料館で21日に始まる企画展「街道の風景 宿場町に伝わったもの」の目玉として展示される。

 同館TEL0791.63.0907 (直江 純)

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