(文=布施鋼治)
2023年アジア大会第2日(10月5日)に行なわれた女子57㎏級決勝戦。2週間前、3年連続世界チャンピオンになるとともに、パリ・オリンピックの出場切符を手にした櫻井つぐみ(育英大)は絶体絶命のピンチを迎えていた。
第1ピリオドから、ヨン・インスム(北朝鮮)が櫻井をどんどん攻め込むというまさかの展開に、場内は大きくどよめいた。極めつけは、ヨンに両足をもたれた体勢から崩されフォール寸前まで追い込まれた場面だろう。結局、その体勢のまま櫻井は長時間ブリッジをしながらフォールを回避するしかなかった。
▲タックルを受け、あわやフォール負けのピンチを迎えた櫻井つぐみ=撮影・保高幸子
試合終了直後、櫻井は生きた心地がしなかった1分以上の時間を振り返る。
「本当にフォールされそうで危なかった」
ヨンは2018年と19年の世界選手権代表ながら、目立った成績を残しているわけではない。その後、新型コロナウイルスが感染拡大し、北朝鮮は国際試合の派遣を一切やめていた。今回は約4年ぶりの国際舞台への復帰。
その間、ヨンがどんな活動をしていたのかはベールに包まれている。ただ、この大会に出場するにあたり、十分すぎるほど櫻井対策をしてきたことは確かだろう。
体力と気持ちの強さで引き寄せた逆転優勝
第2ピリオド、残り時間1分を切っても、スコアは6-1とヨンが大きくリードしていた。しかし、ここから櫻井は怒濤の反撃を見せる。まずは立て続けにヨンを場外に押し出す。さらに、疲れの見えるヨンを引いて倒してバックに回り場外へ。この時点でヨンは疲労を隠せず、場外逃避という行動に2回も出た。
審判はこの行動を見逃さず、ヨンに立て続けにコーション(減点)を与える。その結果、試合終了残り1秒というギリギリのところで櫻井は7-6と逆転。奇跡としかいいようのない展開で、アジア大会初優勝を遂げた。
▲ラスト1秒で逆転勝ち、終了間際の強さを発揮して優勝の櫻井=撮影・保高幸子
櫻井は過去にも、何度も終了間際の逆転勝利をおさめている。今年7月1日、南條早映(東新住建)との間で争われたプレーオフもそうだった。
なぜ櫻井は絶体絶命のピンチを回避することができたのか。
「自分には体力があるし、気持ちの面でも絶対負けないと思っていました。ハーフタイムのときには気持ちを切り替えることに集中していました。最後はヨンもきつそうで、最初の強さもなくなっていたので、『もう行くしかない』という覚悟で、なんとか勝ち切った感じです」
躍進が目立った北朝鮮、パリでの宿敵になるか
今大会は、北朝鮮代表の躍進が目立った。翌日実施された62㎏級の決勝では、尾﨑野乃香(慶大)がムン・ヒョンヨンにまさかの逆転負けを喫している。パリでは好敵手になるかもしれないヨンにはどんな強さを感じたのか?
「最初に当たったときの力がすごく強かった。わたしはふだん、男子とも練習しているけど、それ以上の力を感じました。点が取れる気が全然しなかった」
先の世界選手権から2週間という短い試合間隔でのアジア大会出場だった。減量や調整の面で苦労する部分はなかったのか。
「逆に体重が減っていたので、戻すのが大変でした。こんな短いスパンで大会に出るのは初めてだったので、正直、疲れた部分もありました。セルビアから帰国しても、いつものような厳しい練習もできなかったので、不安も大きかった。でも、日本代表としての自覚はしっかりと持ち、『日本のレスリングは強いことを世界に見せないといけない』と強く思っていました」
▲米国、モルドバ、ウクライナに加え、パリでの強敵に北朝鮮が加わった!=撮影・保高幸子
世界選手権の会場には、日々切磋琢磨する元木咲良(62kg級代表)、石井亜海(68kg級代表)、練習パートナーの清岡もえ、観客席には指導を受ける同大学レスリング部の柳川美麿監督や家族がいた。今回の中国には、育英大からは櫻井ひとりの遠征だった。
「世界選手権からすぐということもあり、家族も先生も誰も来ていませんでした。ただ、自分が練習してきたことをどう出すかという問題だったので、育英大で練習してきて本当によかったと思います」
“逆転の鬼”ともいえる櫻井の類まれな勝負強さは、パリの大舞台でも発揮されるのか。