「村上春樹を読む」(57)「ふかえり」と「そとおり」 古代神話と長い因縁話・その1

 村上春樹が質問に答える『村上さんのところ』(新潮社)

 読者からのメールによる質問に村上春樹が答えた『村上さんのところ』(2015年)の中に、『1Q84』の続編(BOOK4)についての質問があり、それに村上春樹が答えたものがありました。

 「『1Q84』の続編(BOOK4)は書こうかどうしようか、長いあいだずいぶん迷ったんだけど、そのためには前に書いた三冊を読み返して、いちいちメモとかをとらなくてはならず、とても複雑な話なので『それもちょっと面倒かな』と二の足を踏んでいます。僕はあまり準備をしてものを書くというのが好きではないので。可能性をいろいろと探っているところです。結論はまだ出ていません。僕の印象では『1Q84』にはあの前の話があり、あのあとの話があります。いわば長い因縁話みたいになっています。それを書いた方がいいのか、書かないままにしておいた方がいいのか…」

 このことは、何回か前のこのコラム「村上春樹を読む」でも紹介しました。とても率直な発言で、自分の作品への読者からの質問に、村上春樹が直接答えるという行為のよさが、よくあらわれた村上春樹のつぶやきだと思いました。

 以前に紹介した時は「読者にとっては、とても気になる村上春樹の正直な発言ですね。『1Q84』を面白く読んだ読者としては、ぜひ続きを読んでみたいです」とだけ記したのですが、「とても気になる」部分が、その後も私の中で増殖していますので、もし『1Q84』の続編(BOOK4)があるとしたら、どういう問題があるのかという点を、私なりに、少し考えてみたいと思います。

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 村上春樹への質問者のメールは「『1Q84』の続編(BOOK4)についての執筆は今後考えているのでしょうか?」という18歳の学生からのものですが、多くの人が『1Q84』にBOOK4が、もしかしたらあるかもしれない…と思うのは、女主人公・青豆が男主人公・天吾の子を身ごもっているところで、『1Q84』のBOOK3が終わっているからでしょう。簡単に言えば、「あの青豆と天吾の子どもはどうなるのだろう…?」という思いです。

 そこで、その子はどういうふうにして、生まれてきたかということから、このコラムを書いてみたいと思います。青豆が天吾の子だと確信している子どもは、青豆と天吾が関係してできた子どもではありません。

 天吾と性的に関係したのは「ふかえり」です。ふかえりは17歳の美少女作家で、塾の数学講師をしながら小説家を目指している天吾が、ふかえりの小説『空気さなぎ』をリライトしてベストセラーになるのです。

 そのふかえりと天吾は、雷鳴が鳴り響き、大雨が降り続いて、洪水のように水が溢れ、地下鉄がとまる夜に、関係します。

 天吾が、この17歳の少女と関係することを現実の倫理から考えて、いけないことと読んだ読者もいるようですが、これは雷鳴、大雨、洪水…の中での話ですので〈神話的な交わり〉だと思います。実際、その場面で「ノアの洪水」のことなどが繰り返し出てきますし、作中ふかえりも「オハライをする」と巫女のような言葉で、その交わりを呼んでいます。

 そうでなければ、天吾とふかえりが交わって、青豆が天吾の子を妊娠するという、ねじれのある結果を物語の展開上、理解し、受け取っていくことが難しいと思います。これは「1984」年の世界の出来事ではなくて、『1Q84』でのことなのです。

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 そして、私は、この天吾とふかえりは、実は兄と妹の関係にあるのだろうと思っています。

 例えば、天吾はふかえりとの初対面の時に、こんなふうに感じています。

 「ふかえりという十七歳の少女を目の前にしていると、天吾はそれなりに激しい心の震えのようなものを感じた。それは最初に彼女の写真を目にしたときに感じたのと同じものだったが、実物を目の前にすると、その震えはいっそう強いものになった。恋心とか、性的な欲望とか、そういうものではない。おそらく何かが小さな隙間から入ってきて、彼の中にある空白を満たそうとしているのだ。そんな気がした。それはふかえりが作り出した空白ではない。天吾の中にもともとあったものだ。彼女がそこに特殊な光をあてて、あらためて照らし出したのだ」

 この「恋心とか、性的な欲望とか、そういうものではない」何かが、自分のなかにある空白を満たそうとしていると天吾は、ふかえりを見て思うのです。でも「それはふかえりが作り出した空白ではない。天吾の中にもともとあったものだ。彼女がそこに特殊な光をあてて、あらためて照らし出したのだ」ということは、天吾とふかえりが兄と妹であれば、ちゃんと受け取ることができる言葉ではないでしょうか。

 『1Q84』の最初のほうに「天吾」には「兄弟はいない」とありますが、でも「妹」がいないとは書かれていません。

 母親が、天吾を育ててくれた父親ではない、他の若い男と関係しているという幻影は、『1Q84』の中で繰り返し書かれています。その「若い男が、自分の生物学的な父親ではないのか、天吾はよくそう考えた」とありますし、「自分の父親ということになっている人物」とは「あらゆる点で天吾は似ていなかった」とも記されています。

 つまり、天吾の父親は、青豆が、雷鳴と大雨と洪水の夜に、ホテルで殺害したリーダー(深田保)ではないか…と、私は考えているのです。

 天吾とふかえりの2人が、ふかえりの育ての親である戎野先生を訪ねる場面がありますが、そこで戎野先生は深田保について「身体も大きい。そうだな、ちょうど君くらいの体格だ」と天吾に語っています。

 以上だけでは、証拠不足で、天吾とふかえりが、兄と妹であると断定することはできないと思う人もいるかと思います。そこで漢字学者の白川静さんの文字学で『1Q84』の文章を読んでいくと、天吾がふかえりの「兄」であることを述べているのではないかと思われる場面があって、そのことを具体的に考察したこともあります。

 その点については、かつてこのコラムでも記しましたし、『空想読解 なるほど、村上春樹』(2012年)という本に詳しく書きましたので、興味があったら、それを読んでください。

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 さて、仮に天吾とふかえりが、兄と妹だとすれば、2人が関係することは、男性が17歳の少女と関係するということだけでなく、近親相姦の関係となることだと思います。これは「1984」年の世界の倫理では、許されるものではないでしょう。

 でも村上春樹が言う「長い因縁話」というものを、古代まで遡って考えてみたいのです。ふかえりの本名は「深田絵里子」ですので、深キョン(深田恭子さん)、サトエリ(佐藤江梨子さん)を合わせたような感じもありますが、私は「長い因縁話」をずっと古代まで遡って、『古事記』や『日本書紀』に出てくる衣通姫(そとおりひめ)と対応した命名ではないかと考えています。つまり「ふかえり」は「そとおり」ではないかと思うのです。

 ふかえりは美少女作家ですが、「衣通姫」のほうも古代を代表する美女です。『古事記』によると允恭天皇の後継者・軽太子(かるのみこ)は実妹の軽大郎女(かるのおおいらつめ、衣通姫)と道ならぬ恋をしてしまい、四国・伊予の道後温泉に追放されてしまいます。古代でも実の兄妹の近親相姦はタブーだったのです。

 「天飛ぶ鳥も使そ鶴(たづ)が音(ね)の聞えむ時は我が名問はさね」(空を飛ぶ鳥も使者なのだ。鶴の声が聞こえたら、私の名を言って、私のことを尋ねておくれ)という歌などを残して、軽太子は追放されていくのですが、想いがつのる軽大郎女(衣通姫)が四国まで追いかけていって、そのまま二人で自害してしまいます。

 この衣通姫とふかえりの共通点はただ美しいだけではありません。衣通姫は「美しい肌の色が衣を通して輝いた」という美女ですが、新人文学賞の記者会見の場で撮られた、夏物のセーターを着ている「ふかえり」には「ある種の輝きがうかがえた」と『1Q84』にあります。

 また「ふかえり」は、新人文学賞を受けた後、失踪して、天吾のアパートの部屋に潜んでいるのですが、『日本書紀』のほうの「そとおり」も身を隠す美しい姫です。

 衣通姫伝説は『古事記』と『日本書紀』では異なっていて、『日本書紀』の「そとおり」は允恭天皇の皇后の妹である「弟姫」のことです。天皇から寵愛を受けた「弟姫」は、姉の嫉妬を避けるため、遠く離れた土地に住むのです。でも姉の皇后は妹の住む土地への天皇のお出まし数を減らすようにと言い、天皇のお出ましは稀になっていきます…。

 そして、天吾のアパートに身を隠している「ふかえり」の首筋の姿は「陽光をふんだんに受けて育った野菜のように艶やかに輝いている」と記されているのです。

 このように美少女作家「ふかえり」と日本の古代を代表する美女「そとおり」にはいくつかの対応性をもって、『1Q84』の中で描かれているように、私は思います。

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 『1Q84』では、ふかえりは『空気さなぎ』の作者であるにもかかわらず、ディスレクシア(読字障害)を持っていて、本は文字で読まずに、声を通して理解してきた人だと説明されています。『空気さなぎ』という作品は、ふかえりが語ったものを戎野の実の娘・アザミが書き取ったものという設定です。

 この『空気さなぎ』の成立の仕方も実に古代的だと思います。「ふかえりはただ物語を語り、別な女の子がそれを文章にした。成立過程としては『古事記』とか『平家物語』といった口承文学と同じだ」と村上春樹は書いています。そして物語を語ったふかえりと、それをリライトした天吾は『古事記』における稗田阿礼と太安万侶の関係と同じだといえます。つまり、この『1Q84』という作品は、古代的、神話的な世界としての側面を強くもっているのです。

 ふかえりは『平家物語』の「壇ノ浦の合戦」の安徳天皇入水の場面を暗唱していて、その場面を長々と語るところがありますし、その章の名は「気の毒なギリアーク人」というものです。ふかえりの「壇ノ浦の合戦」の語りの後、天吾がチェーホフの『サハリン島』に描かれたギリアーク人の暮らしぶりについて、ふかえりに話すのです。

 ギリアーク人はロシア人が植民してくるずっと前からサハリンに住んでいた〈先住民〉です。元々はサハリン島の南のほうに暮らしていましたが、北海道から渡ってきたアイヌ人に押されるようにして、サハリン島の中部に住んでいたことなどが記されています。チェーホフはサハリンのロシア化で、急速に失われていくギリアーク人たちの生活文化を観察して、書き残そうとしていました。

 ふかえりは、天吾が読んでくれたチェーホフの『サハリン島』にこころ動かされることがあったようで、ギリアーク人について、アザミ(ふかえりが語った『空気さなぎ』を文字化してくれた女性で、戎野の実の娘)に調べてもらいます。その結果が録音テープに吹き込んだふかえりの手紙として、天吾のもとに届けられるのです。

 「ギリアークじんはサハリンにすんでいてアイヌやアメリカ・インディアンとおなじでジをもたない。キロクものこさない。わたしもおなじ。いったんジになるとそれはわたしのはなしではなくなる」と、録音テープの手紙の中で、ふかえりは語っています。

 つまりふかえりの「壇ノ浦の合戦」の語りと、ギリアーク人と、ふかえりの『空気さなぎ』という小説は、語りであること、口承であることで、みな繋がっているということを村上春樹は述べているわけです。

 しかもギリアーク人はサハリン島の〈先住民〉です。「壇ノ浦の合戦」は日本歴史の古代、中世、近世、近代などの区分でいうと、古代の最後の最後の部分に相当する時代です。これらはみな同じ古代的な側面が反映したものだと、私は思っています。

 書き言葉が苦手なふかえりが、手紙もカセットテープで天吾に届けるという場面は、村上春樹の初期の短編「カンガルー通信」を思い起こさせる場面ですね。デパートの苦情処理担当の主人公が、どうしても書き言葉が頭に浮かんでこないゆえにカセットテープにメッセージを吹き込んで郵送するという作品です。このように、村上春樹には、文字で統一的に表記される前の言葉が持っていた力(口承文学)を深く愛しているのですが、『1Q84』にも、似たような古代的なふかえりの力と、それを受けとめる天吾がいると思います。

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 天吾とふかえりが兄と妹であり、天吾は、雷鳴と大雨と洪水の夜に、青豆がホテルで殺害したリーダー(深田保)の子どもであると考えると、天吾とふかえりが交わり、青豆が妊娠している天吾の子は、リーダー(深田保)の血を受け継ぐ存在です。ですから、天吾の子どもの妊娠を知ったカルト教団「さきがけ」のメンバーたちが、リーダーを殺害した青豆の追跡をやめてしまうのでしょう。

 「青豆」を護るために「牛河」を殺したあと、電話で連絡してきた「タマル」に対して、さきがけのメンバーは「青豆さんをこれ以上追及するつもりはありません。我々が今求めているのは彼女と語り合うことです」と言います。さらに「我々は声を聞き続けなくてはなりません」とさきがけの人たちは言うのです。

 これらの会話は、天吾とふかえりが兄妹であり、2人ともリーダー(深田保)の子どもであれば意味を明瞭に受け取ることができます。リーダーは〈声を聴くもの〉だったのですから。

 リーダーは青豆に殺害される前に「古代の世界において、統治することは、神の声を聴くことと同義だった」と言っています。青豆が「そしてあなたは王になった」と聞くと、リーダーは「王ではない。〈声を聴くもの〉になったのだ」と答えているのです。

 これは、ちょっと入り組んだ会話です。「古代の世界において、統治することは、神の声を聴くことと同義」なのですから、「王ではない。〈声を聴くもの〉になったのだ」との発言は一見矛盾した表現とも言えますね。つまりこれは世俗的・世襲的な王ではなく、「古代の王になった」という意味と受け取るべき言葉なのでしょう。

 そして、ふかえり(深田絵里子)こそ、はっきりとしたリーダー(深田保)の子どもですから、ふかえりも〈声を聴くもの〉になる有資格者のはずです。

 だから「深田絵里子はどうなんだ、あんた方は彼女をもう必要とはしていないのか?」とタマルは、さきがけたちに問うています。それに対して、「我々は深田絵里子を今の時点でとくに必要とはしていません。彼女がどこにいても何をしようとかまわない。彼女はその使命を終えました」と、さきがけは答えています。

 次にタマルは青豆へ電話連絡をしてきて、「ひょっとして、あんたのお腹の中にいる胎児がリーダーの子供だという可能性は考えられないか?」と青豆に話しかけてもいます。それに対して青豆は「そんなことはあり得ない。これは天吾くんの子供なの」と述べるのです。

 「彼らは最初のうちはあんたを捕まえて厳しく罰しようとしていた。しかしある時点で何かが起こった。あるいは何かが判明した。そして彼らは今ではあんたを必要としている」ともタマルは述べています。さらにタマルは「しかしいったいどのような理由で、川奈天吾とあんたとのあいだにできる子供が、そんな特別な能力を身につけることになるのだろう?」と自問のような言葉を発していますが、青豆は「わからない」と応じるだけです。

 この「しかしいったいどのような理由で、川奈天吾とあんたとのあいだにできる子供が、そんな特別な能力を身につけることになるのだろう?」は、村上春樹が読者に、その謎を考えてくださいと記しているように感じます。

 そして、それは、私が考えているように〈天吾とふかえりが兄と妹である〉と考えれば、その謎はほぼ解消するのではないかと思うのです。

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 さきがけのメンバーが、ある時点で青豆が身ごもっているのは天吾の子であることを知って、その子どもに伝えられた血統をほしいと願い、青豆の追及・殺害をあきらめてしまうということは、天吾の母とリーダー(深田保)との関係を、さきがけのメンバーたちも何かの部分で、知っていたということになるかと思います。

 「僕の印象では『1Q84』にはあの前の話があり、あのあとの話があります」と村上春樹は、読者からのメールの質問に答えていますが、天吾の母親が「あの前の話」で、さきがけのメンバーたちと何らかの関係をもっていたのかもしれない…と、私は思います。もうこれ以上は合理的な推測の域を超えて、妄想の領域に入ってきますので、このあたりでやめますが、そのような妄想が湧いてくるほどの「長い因縁話」のようにして『1Q84』という長編小説があるのです。

 『村上さんのところ』には、こんな質問もありました。

 「村上さんはじめまして。村上さんの小説はほとんど読みました。というより、なぜだか読んでしまうのです。それがとても不思議なのです。村上春樹は現代において神話を紡いでいるのである、と何かで読みましたがそういうことなのでしょうか。だから読んでしまうのでしょうか」

 それ対して、村上春樹は次のように答えています。

 「世界にはいろんな神話がありますが、どこの国の神話にも「共通する部分」がとても多いんです。同じような成り立ちの話がとても多いです。それについてはジョーゼフ・キャンベルという人が『生きるよすがとしての神話』『神話の力』の中で詳しく語っています。なぜ「共通する部分」が多いのか? それは人というのは、言語や文化の違いを超えて、時間を超えて、意識の底の方でみんなしっかりと同じ水脈に繋がっているからだ、というのがキャンベルの考え方です。

 無意識下のイメージはだいたいみんな似ているんです。僕が小説を書くときも、そのような無意識下のイメージをできるだけ繋げていきたいという思いがあります。あなたは僕のそのような思いにうまく感応してくださっているのかもしれません。だとしたら、僕としても嬉しいです」

 この答えは、村上春樹が、神話というものを大切に考えて物語を書いていることを、率直に述べたものだと思います。

 ですから、私のように天吾とふかえりを、そとおり・衣通姫の伝説とつなぎ、軽太子、軽大郎女の神話とつなげて考えてみることも、それほど無謀な考えではないと思っています。

 今回の「村上春樹を読む」はここまでとして、次に「どこの国の神話にも『共通する部分』がとても多い」と村上春樹が語っていることについて、今回述べたことの延長として、考えてみたいと思います。(共同通信編集委員・小山鉄郎)

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