土光敏夫に学ぶ「利他の心」③ 臨調の委員、宿泊費、車は支給されず

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・戦後最も成功した土光臨調、審議は実質2カ月程度。

・経費削減のため委員の宿泊費、車は一切支給されず.

・「土光さんのためなら」。まわりの人にこう言わせるリーダーシップがあった。

戦後最も成功した行財政改革は、土光臨調と言われています。その土光敏夫が会長となる第2臨調がスタートしたのは1981年3月16日でした。

当時土光は84歳です。経団連会長を辞任した後、隠居しようとしていましたが、白羽の矢が立ったのです。当初固辞していました。「80歳を超えたわざわざ年寄りを使う必要はないだろう。もっと若い人に行革をやらせる方がいい」。しかし、周囲が「お国のためにひと肌脱いでくれ」と強く勧め、受け入れました。

事務局の中核となっている主任調査員が土光に対し、「どういう哲学なり、スタンスで行革をやろうとしているのですか」と聞きました。

すると、土光は「行革というのは君、10年先、20年先の日本をどうするのかということを考えるためのものだ。俺は5,6年もしたら地獄の釜の底にいるだろう。10年先、20年先の日本を動かすのは若い君達じゃないのか。俺はその時日本を君達がどう動かしているか地獄の釜の底からみているぞ。君達が考えるのが当たり前ではないか」と答えました。

鬼気迫る発言だったそうです。

臨調は第一次答申をこの年の7月上旬に出すことになりました。来年度の予算編成に間に合わせるためなのですが、審議は実質2カ月程度。殺人的な突貫工事だったのです。

当面の支出削減や収入確保を担当する第一特別部会長についた住友電気工業会長の亀井正夫でした。関西の会社と家を離れて東京でホテル住まいとなりました。会社に用事のあるときは、飛行機でとんぼ帰りしました。東京に戻ってからは、各省庁の担当者をヒアリング。ホテルの宿泊費、車や飛行機の料金などは支給されません。

臨調の会長や委員、部会長などには車は提供されていなかったのです。行財政改革を標榜している限り、経費削減が不可欠というのです。

審議は深夜まで続き、終電が間に合わないケースもあります。ある委員は、神奈川県・藤沢市から、夫人が深夜に自家用車を運転して迎えにやってきてもらいました。

臨調には各省庁から事務職員も集められたのです。総勢128人。臨調の事務局のスタッフもまたハードなスケジュールでした。夜9時に部会が終わると、スタッフで協議。それが午前5時まで続きます。各省庁の予算をチェックするため、午前3時ごろに各省の官房長が臨調事務局に来ることもありました。事務職員の帰宅は午前6時。風呂に入り、朝食を食べて、そのまま、土光らの待つホテルに向かいました。

当時臨調スタッフで、のちに総務庁長官となった山本貞雄は、「土光さんのためならと、全員がんばりました」と振り返っています。

「土光さんのためなら」。まわりの人にこう言わせるリーダーシップ。私は臨調の主要メンバーだったウシオ電機会長、牛尾治朗に聞きました。ウシオ電機の牛尾治朗と言えば、財界屈指の論客と知られています。小泉内閣の経済財政諮問会議のメンバーとして構造改革を訴えてきました。

私が土光敏夫のことで取材すると、牛尾は昔を思い出してくれました。牛尾は当初、週3時間ぐらい時間で大丈夫ということで、臨調の仕事を始めました。しかし、2カ月後には週20時間、3カ月後には週30時間と臨調に費やす時間は急増しました。そして基本答申の審議に入る9月になると、70時間を超えてしまいました。経営者としては、本業がおろそかになります。

悩んだ牛尾は、臨調の委員辞任の意向を伝えようと、土光の部屋を訪れました。そんな牛尾に土光は何と言ったのでしょうか。

トップ写真:イメージ(本記事とは関係ありません)出典:Lane Oatey/Blue Jean Images/Getty Images

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