元特攻隊員が開設の「大分予科練資料館」閉館へ 収蔵品一部は県護国神社に移し保管【大分県】

特攻隊員の遺書や遺品など約3千点が並ぶ大分予科練資料館。展示品を見る川野孝康さん=大分市上野丘
館長を務めていた故・川野喜一さん

 平和の大切さを伝えてきた大分市上野丘の「大分予科練資料館」が閉館する。元特攻隊員の川野喜一さんが1988年に私設で開いて館長を務めてきたが、2年前に95歳で亡くなった。現在は予約客だけが見学できる。管理する長男孝康さん(67)は「1人で守り続けるのは難しい」と悩み、終戦80年の節目を前に幕を下ろすことにした。収蔵品の一部は県護国神社などに移し保管する。

 資料館には、若くして亡くなった特攻隊員の遺書をはじめ日の丸の寄せ書き、ゼロ戦のプロペラ、戦時中の飛行服など約3千点を並べている。

 喜一さんは特攻隊員として出撃する2日前に終戦を迎えた。「亡くなった戦友たちの思いを知ってもらうのが生き残った者の使命」と考え、自宅1階を改装して開館した。広さは約120平方メートル。

 私設は珍しいとあって国外からの来館者もいた。近隣の小学校は平和学習の場として活用。喜一さんは予科練の帽子をかぶって体験を語り、館内で線香をたいて戦友を弔う日々を送っていた。

 5年ほど前に喜一さんが体調を崩して以来、資料館は休館状態となった。亡くなった後は再開のめどが立たず、ホームページなどを通じて予約があった場合のみ、市内の別の場所に住む孝康さんが駆け付けて応じている。

 仕事の合間での対応は限度があり、「私の後に引き継ぐ人はいない。貴重な資料をいつまで保管し続けられるのか」と考えた。「戦没者を慰霊し続けたい」という喜一さんの遺志を尊重し、一部を護国神社に寄託することにした。

 神社は公開できる場を設ける方針。孝康さんは資料の移管にめどが立てば閉館式を営むという。「戦後78年がたち、当時を知る人も少なくなっている。資料館は閉じても、収蔵品を残すことで父の思いを後世に伝えていきたい」と語った。

<メモ>

 「予科練」は海軍飛行予科練習生や、その練習生を育成する制度の略称。予科練平和記念館(茨城県阿見町)によると、若いうちから飛行技術を習得させるため1930年に創設され、全国から志願して選抜された15~17歳の少年を航空兵として育てた。終戦までの15年間に約2万4千人の予科練出身者が航空兵として出征。特別攻撃隊に組み込まれた若者も多く、8割ほどに当たる約1万9千人が戦陣に散った。

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