《戦後78年》鎮魂の祈り 最後まで 茨城・筑波空特攻隊員 柳井さん死去 戦友名誉のため使命感

彫刻作品「かえり雲」の前に立つ柳井和臣さん(右)と流政之さん=2013年11月23日、笠間市旭町(同市提供)=1945年

戦時中、旧友部町(現茨城県笠間市)の筑波海軍航空隊(筑波空)で編成された特攻隊に所属した柳井和臣さんが9月、101歳で亡くなった。1945年5月、鹿屋基地(鹿児島県)で特攻作戦に臨んだが、敵艦がなく帰投し、終戦を迎えた。戦後は「命の限り、戦友を慰霊する」と特攻隊員をしのぶ各地の慰霊祭に参加するなど、鎮魂の祈りをささげ続けた。

柳井さんは山口県出身。慶応大在学中の43年、学徒出陣で海軍に入り、14期飛行予備学生に採用された。土浦航空隊などで搭乗員として教育を受けた後、筑波空に配属された。戦況が悪化した45年2月、志願して特攻隊に入隊。同年5月、鹿屋基地で特攻作戦に臨んだが、敵艦がなく帰投し、待命中に終戦を迎えた。

戦後は、99年に筑波空の元隊員らが創設した「友の会」に入会。2019年まで慰霊祭に参加し続けた。元隊員が高齢で参加できなくなったり、亡くなったりした後は、実質的に慰霊祭の中心を担った。

笠間市で08年に開かれた講演会では、出撃当時を「死ぬのは当たり前と割り切って搭乗した。敵艦を発見できず、帰るのが嫌だったが、『ご苦労さま。次があるからな』と迎えてくれた司令官が忘れられない」と振り返った。終戦後、司令官は自決したという。特攻で多くの戦友も命を落とし、「戦争の悲惨さを改めて感じる」と語っていた。

飛行予備学生時代の友人とは交流を続け、慰霊の取り組みを行った。彫刻家の流政之さん(1923~2018年)もその1人。13年には、柳井さんの橋渡しで、御影石の作品「かえり雲」が筑波空跡地(現県こころの医療センター)に設置された。流さんは「亡き戦友たちを思い、筑波空の思い出と慰霊のために」と寄贈を決めたという。

父親が筑波空の飛行隊長で、「友の会」会長を務める松井方子さん(79)=横浜市=は、「柳井さんは戦友の名誉のため強い使命感で慰霊を続けられた。現代の価値観で軽々しく語ることはできない。残念でならない」と悼んだ。

「友の会」創設に関わった元事務局長の南秀利さん(86)=笠間市=は、柳井さんについて「最初は多くを語らぬ印象だったが、言葉を聞けるようになって、慰霊への強い信念を感じた」としのんだ。

筑波空記念館館長の金沢大介さん(53)は「戦後世代の自分たちが記念館を運営していることを評価してくれた。会うたびに『筑波空のことを頼んだぞ』と叱咤(しった)激励してくれた。人となりを紹介する催しを開きたい」と話している。

★筑波海軍航空隊

1938年、霞ケ浦海軍航空隊友部分遣隊から独立して発足した。ゼロ戦創生期を支えたパイロットを輩出。戦局の悪化により、特攻隊員を含め所属した73人の若者の多くが太平洋戦争末期のフィリピンや沖縄で命を落とした。

23歳で特攻隊員となった柳井和臣さん(筑波海軍航空隊記念館提供)=1945年

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