『ジャガーXJR-11』スプリントでの速さを求めたジャガーターボ【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、世界スポーツプロトタイプカー選手権(WSPC)を戦った『ジャガーXJR-11』です。

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 大排気量のV型12気筒NAエンジンを搭載して、ル・マン24時間レースにおいて絶対王者ポルシェの連勝記録を止めた『ジャガーXJR-9』。3.5リッターNAエンジンを搭載する新規定グループCカーとして驚速を披露し、“カウルを被ったF1マシン”とも称された『ジャガーXJR-14』。ジャガーのグループCカーといえば、この2台が特に歴史に名を残したマシンとして知られていることだろう。

 今回は、そんな名車2台の狭間、時代の過渡期とも言えるタイミングで生まれた『ジャガーXJR-11』を紹介しよう。

『XJR-11』は大排気量の自然吸気エンジンを積むマシンが長距離戦こそ強いものの、スプリントでは不利な面が多かったこともあり、WSPCにおける短距離戦でのスピードアップを狙って開発された1台だった。

 そのためエンジンは前述の大排気量NAではなく、新たに3.5リッターのV6ターボを採用。このエンジンは、もともとWRCを戦っていたグループBラリーカーの『MGメトロ6R4』に搭載されていたもので、これをベースに排気量を3.0リッターから3.5リッターへと拡大し、ツインターボ化するなどして新型のエンジンとして仕立てられた。

 またトニー・サウスゲートが主導して設計されたシャシーも、このエンジンに合わせて新たに仕立てられ、旧型よりも軽量コンパクトなカーボンモノコックを採用していた。

 1989年に誕生した『XJR-11』は、同年WSPCの第4戦ブランズハッチでデビューを果たした。しかし、シャシー性能こそ素性のよいものだったが、エンジンの開発期間が短かったことなどで、信頼性に不足がみられ、まともな成績を残すことができなかった。同年のWSPC最終戦では、マシンを旧型の『XJR-9』に戻さなければいけない事態に陥っていた。

 オフシーズンには問題となった信頼性を確保するために総力を注ぎ、1990年の新シーズンへと挑んだ。すると同年は1勝を挙げ、上位入賞も果たすほどにポテンシャルアップを遂げた。しかし、最大のライバル、メルセデスには歯が立たず、ポイントランキングでも大きく水を開けられてしまった。

 翌1991年は新規定車の導入が決まっていたため、『XJR-11』はこの1990年限りで一線を退くこととなった。このように世界選手権では1990年限りで役目を終えた『XJR-11』だったが、翌1991年に『XJR-11』は日本へと上陸していた。

 日本に持ち込んだのは、同年、全日本F3000選手権などにも参戦していたサンテックレーシングチーム。サンテックはTWRとリース契約を結び『XJR-11』で全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)へと殴り込んだが、TWRのクルーの監視下でなければマシンに触れられないなど厳しい条件もあり、日本仕様へのアップデートをすることもできなかった。

 そのため、確かに速さはあったもののトラブルも多く、目立った結果を残せずにシーズンを終えている(サンテックは1991年のJSPC最終戦を『XJR-14』で戦っているため、『XJR-11』での参戦は第2戦から第6戦までだった)。

 こうして『ジャガーXJR-11』は、日本の地で現役最後のときを迎えたのだった。

1990年のWSPC第3戦シルバーストンで2位に入った4号車の『ジャガーXJR-11』。アンディ・ウォレスとヤン・ラマースがステアリングを握った。
1991年のJSPC第2戦全日本富士1000kmレースを戦った『ジャガーXJR-11』。マウロ・マルティニとジェフ・クロスノフがドライブした。
1991年のJSPC第4戦鈴鹿1000kmを戦った『ジャガーXJR-11』。ジョン・ニールセン、マウロ・マルティニ、ジェフ・クロスノフがステアリングを握った。

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