土光敏夫に学ぶ「利他の心」⑨ 弁当用意 徹夜で交渉します

出町譲(高岡市議会議員・作家)

【まとめ】

・ドッジ・ラインで景気は一気に冷え込み、倒産や失業が相次ぐ。

・土光、「独創的な仕事といえるものも、執念の産物であることが多い」と強調。

・「執念の欠如する者には、自信を得る機会が与えられない」とも。

終戦直後に石川島芝浦タービンの社長に就任した土光敏夫にとって最大の懸念は、資金繰りでした。占領下の当時の日本経済は猛烈なインフレに見舞われていたのです。敗戦によって、中国や朝鮮半島など海外にいる日本人が帰国。人が増える一方で、政府は次々に紙幣を発行したため、物価急騰を招いたのです。多くの国民は貧困にあえいだのです。

そこでGHQの経済顧問として、デトロイト銀行のジョセフ・ドッジが来日。昭和24年に、インフレ抑制のため、財政と金融の抑制策、いわゆるドッジ・ラインを勧告しました。すると、物価はみるみるうちに沈静化しましたが、強烈な副作用が出たのです。景気は一気に冷え込み、倒産や失業が相次いだのです。

インフレが一気にデフレに転じ、「ドッジ不況」とも呼ばれました。三井や三菱といった名門企業ですら、資金繰りに窮する状態です。ましてや、後ろ盾のない石川島芝浦タービンは苦しんでいたのです。切羽詰った土光は銀行に融資を求めました。

ある日、松本工場からの帰路、第一銀行の本店を訪ねました。弁当を買い込んで、乗り込んだのです。融資を求める土光に対し、営業部次長でのちに頭取になる長谷川重三郎は「お貸しできるお金はありません」と断りました。押し問答が続きましたが、結論が出ません。長谷川は疲れ切りました。その時土光はおもむろに弁当を取り出し、「きょうはどうしても融資してください。弁当を用意してきたので、夜が明けるまででもがんばりますよ」とアピールしたのです。

強硬な姿勢に、長谷川は押し切られ、融資を実行しました。長谷川はのちに述懐している。「当時はドッジ・ラインで、給料は一人当たり500円でカットされていた。どの会社も遅配、欠配が続いて、銀行にもカネがなかった。だが、土光さんのあの熱心さにはまいった。一緒に駅弁を食べた記憶がいまでも鮮やかに思い出せる」

また、当時の通産省にも連日陳情。機械業界の補助金を引き出すためです。局長や次長に訴え続け、最終的には補助金獲得に成功しました。

さらに、資金繰りでは世界銀行とも直接渡り合ったのです。大型機械5台を導入するため、6億5000万円の融資が必要でした。自ら世銀の担当者と交渉し、借り入れに成功したのです。当時世銀から最新の設備のために融資を受けられたのは、八幡製鉄、トヨタ自動車、日本鋼管、それに次いで石川島でした。

戦後の混乱期、駆けずり回り、業績の立て直しにメドをつけた。目的に向かって一心不乱に突き進む土光。タービンを人間にしたような男だとして、霞が関や大手町では「人間タービン」とか「タービン野郎」と揶揄されたのです。

土光は「仕事に困難や失敗はつきものだ。そのようなとき、困難に敢然と挑戦し失敗に屈せず再起させるものが、執念である。そればかりではない。およそ独創的な仕事といえるものも、執念の産物であることが多い」と強調する。

その上で、「物事をとことんまで押しつめた経験のない者には、成功による自信が生まれない。能力とは『自信の高さと幅』だといえる。自信を一つ一つ積み上げることが、能力を獲得する過程である。執念の欠如する者には、自信を得る機会が与えられない」と述べています。

トップ写真:羽田空港でのダグラス・マッカサーとジョセフ・M・ドッジ (1949年11月23日)出典:Bettmann / Getty Images

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