作曲家 平井夏美が語る「ロマンス」大瀧詠一からの提案は松田聖子と英国ポップス!  松田聖子の名曲「Romance」誕生秘話を作曲者平井夏美が語る!

声の主は大瀧詠一、「この間、話していた企画、松田聖子でやらないか」

今から40年以上前の1981年夏、「Romance」は携帯電話はおろか、まだメールやLINEでのコミュニケーションも存在しない時代に人と人との深い縁の繋がりで出来た作品である。

当時ビクター音楽産業の社員ディレクターとして、日々多忙を極め都内のレコーディング・スタジオを駆け巡っている頃、たまたまその日はレコーディングが無く、オフィスで譜面の整理をしていたとき、デスクの電話が鳴り受話器を取ると聞き慣れた声が…。「おー、流石にタイミングがいいな、この間、話していた企画、松田聖子でやらないか」声の主は大瀧詠一。その年の春に発売になったアルバム『A LONG VACATION』が大ヒットの兆しを見せ始め、自分が知る限りその生涯でいちばん創作意欲に満ち溢れていた頃の大瀧さんである。

今は総称してJ-POPと呼ばれているが、当時、アイドル系の音楽は一般的に ”歌謡ポップス” と呼ばれ、山口百恵を中心に歌謡曲としての側面が強かったが、松田聖子の登場で一気に ”歌謡” の側面が薄れ、ポップス化が加速していった時期である。従来の大人社会の視点から、”職業作家” と呼ばれていたプロの作詞・作曲家たちが作ってきたティーンエイジャー向けの音楽が、急速にリアルさを失い、より近い世代のシンガーソングライターたちが、音楽業界から芸能界に進出してきた、J-POP前夜の出来事だった。

日本のポップスをこれからどう進化させていくか

その頃の私は大瀧さんの個人的ブレーンを務めていたこともあって、毎週のようにミーティングを重ね、日本のポップスをこれからどう進化させていくかを真摯に模索していた時期でもある。

「松本(隆)から依頼があって今度、松田聖子の新曲を書くことになった」と、そんな話も大瀧さんから随分早い時期に聞いていた。米国の「ティン・パン・アレー系」あるいは「ブリル・ビルディング系」とも呼ばれる作風を主軸にして日本のポップスの変革を試していた大瀧さんから「川原はビートルズ主軸だから英国系だな」などと雑談を交わしながら、英国のソングライターのトニー・マコウレイやトニー・ハッチの作風を日本のポップスにどう当て嵌めるかを漠然と考えていた。

ちなみに余談になるがビートルズの作風を取り入れつつ日本向けのポップスに仕上げることは至難の業である。私の心の師匠である筒美京平曰く「ああいう骨組みのしっかりした強い音楽は、影響力が大きいからパロディみたいにしかならない、だから敢えてビートルズを聴かないようにしている」と言っていたことを思い出す。流行歌作りに徹していたプロ中のプロの発言であると思う。

松田聖子さんへの楽曲提供オーディションに絶対受かりたい!

大瀧さんからの電話に戻ろう。「この間、話していた企画」とは、英国ポップスの作風を日本のポップスに取り入れ、それを松田聖子でやってみようとの提案だった。漠然としたイメージしか無かったが、自分がビクターの社員であることも忘れ、日本のポップスの未来を担うであろうソニーの松田聖子さんへの楽曲提供オーディションに絶対受かりたい!と、正直に思ったものである。

大瀧さんからは資生堂のエクボ洗顔フォームのCMソングであること、大瀧さんの作った「風立ちぬ」とのカップリングで、両A面扱いのシングル盤であること等々を告げられ、益々プレッシャーも感じたが、モチベーションも上がり大瀧さんに「で、締め切りは?」と尋ねたところ「明日の朝の9時半まで…。」との返事。

メディア業界で長く仕事を続けていると解ることだが、こういう急な依頼は元々発注していた作品が何らかの理由でボツになったときに来るものである。こんな時はクライアントもCM制作会社も本当に困っていて必死な状態であるから、一作家の個人的な思い入れよりも、なによりも相手に寄り添い確実に採用される作品を提出しなけらばならない、ということがスタッフで作曲家でもある私の考えである。

前もって作曲の段階から聴いていた大瀧さんの「風立ちぬ」が正直、革新的ではあるものの松田聖子作品としてイメージが重たいと感じていた私は、カップリングのバランスを考え、敢えてそれまでの聖子さんのパブリックイメージに寄り添った作風にしようと意識したのを覚えている。

今も聖子さんファンに気に入られる「Romance」

こうして「Romance」は完成。朝の9時半に通勤途中の髙田馬場の駅前で、当時の大瀧さんのマネージャーだった前島洋児さんにカセットに入れたデモテープを手渡し、そのまま会社に出勤。その日の夕方には船山基紀さんの編曲したオケが出来上がり、次の朝には松本さんの詞が上がり、2日後には聖子さんの歌がレコーディングされ、その日にミックス完了。こうして完成した楽曲はCMスポンサーの関係もあって、当時の人気歌番組『夜のヒットスタジオ』等で歌われ、今も聖子さんファンに気に入られる作品となった。

GPSやLINEでいちいち存在確認をする必要も無く、同じ夢と理想を共有し、阿吽の呼吸で奇跡のような偶然が起きる。もしもあの時、会社に掛かってきた大瀧さんの電話に出られなかったら、作曲家 平井夏美は存在しなかっただろうし、この作品をチャーミングと言って気に入ってくれた松本さんが後に「瑠璃色の地球」を自分に発注することもなかったと思うと、今更ながら深い良縁の元に生まれた大切な作品であることを実感する。

カタリベ: 川原伸司

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