【読書亡羊】まるで「賽の河原の石積み」……イスラエル―パレスチナ問題を考える ダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする時事書評!

イスラエル―パレスチナ問題を読み解く

大きな問題が起きると、すぐに何らかの価値判断を下し、SNSで発信しなければならないという強迫観念に急かされているように見える人が目につく。

そして右派なら右派、左派なら左派の「自陣営における正しいポジション」を確認したら、後は誰かの口移しのように、同じ文言をなぞって「敵陣営」を攻撃し始める。SNSが生活に浸透してからというもの、何度も繰り返されてきた事態だ。

緊迫の度合いを増すイスラエル―パレスチナ問題でも同じ現象が起きている。これまでパレスチナの「パ」の字にも触れたことのないような人たちまでもが、「早く何か言わなければ」「どちらの側に付くのか、あるいは誰を批判するべきか、即座に判断してSNSに投稿しなければ」という強迫観念にとらわれているかのようだ。

なぜそんなに大急ぎで「スタンス」を鮮明にしなければならないのか。

何かに急き立てられてイスラエル―パレスチナ問題にいっちょ噛みして見せる前に、読むべき一冊としてダニエル・ソカッチ『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』(NHK出版)をご紹介したい。

筆者はアメリカ在住のユダヤ人。イスラエルに真の民主主義国家の成立を実現するために活動しているNGOの代表だ。ユダヤ人として子供の頃から「イスラエルとユダヤ人の物語」をしみ込ませてきたが、だからこそユダヤ人自身に対する厳しい視線も保たれており、結果としてフェアな論調となっている。

他の点では知性的な多くの人々が「イスラエル」あるいは「パレスチナ」に味方する論陣を張りながら、物語の一部しか語っていない。彼らは次の点を認めようとしない。つまり、イスラエル人とパレスチナ人はどちらも正しく、どちらも間違っている――どちらも、自分ではどうにもならない力の、お互いの、自分自身の犠牲者なのである。

安易な「どっちもどっち」論にも陥らず、タイトル通り、本書では知るほどにこの問題が「人類史上最もやっかい」であることが一冊を通じて語られている。とても読みやすいのは、特定のスタンスを押し付けるものではないからだろう。

「ハマスは悪!」だけでは済まない事情

無論、現在起きている問題に「どういうスタンスを取ることが、自分の政治信条と照らして正しいのか」「誰を批判すれば間違いないのか」をインスタントに教えてくれるような本ではない。

むしろ、読めば「やっかいな事情」を知ったからこそ軽々に「誰それの立場に立つ!」とは言えなくなってしまうだろう。

というのも「イスラエルVSパレスチナ」という構図だけでは見えなくなってしまう実態を、本書が丁寧に掬い取っているからだ。イスラエル国内にもアラブ人はいて選挙権を持ち、ユダヤ人であっても右派と左派がいる、ということさえ、二項対立の構造の中では忘れられがちだ。

そのスタンスの違いは、社会の断絶、絶対に相容れないとお互いに思っている日本の右派と左派の間にある溝よりももっと深い(かもしれない)。

例えば今回、大規模なイスラエル攻撃に及んだ武装組織・ハマスは確かにパレスチナを代表してはいないが、ガザ地区の支配権を握る過程では合法的選挙に勝っており、さらにさかのぼればイスラエルがハマスを支援していた過去もあるのだという。パレスチナ自治政府は腰が引けており、人質を取ったり民間人を殺傷する行為そのものは悪と断じるほかないが、「ハマスは悪!」と存在を非難するだけで済む問題ではない。

まるで賽の河原の石積み状態

歴史をたどれば2000年以上前の経緯から始めなければならないこの話において、「複雑で分からない、解決不能」と思ってしまえばそれまでである。だが、知ったうえでの「複雑」であれば、前者とは全く意味が異なる。

本書も戦後の経緯を丁寧に追いかけているが、読んでいるとまるで振り子が触れるように、明るい時代と暗い時代の間を行ったり来たりしてきたことが分かる。

その中で「もっとも明るかった時代」と言えるのが1993年のオスロ合意だろう。もちろん問題がすべて解決したわけではなく不満を持つ人もいただろうが、それでもイスラエルのラビン首相とパレスチナの代表・アラファト議長が揃ってノーベル平和賞を受賞したという事実は、現状とは隔世の感がある。

それぞれの立場をなぞりながら綴られる戦後のイスラエルとパレスチナを巡る経緯を知るにつけ、両者だけでなく中東やアメリカのスタンスも勘案しながら積み上げていかなければ前進しないものであることも分かる。凪の状態を作り出すべく細心の注意を払って組み上げても、たった一つの不注意や誰かの意図によって水泡に帰すのだ。

こうしたイスラエル―パレスチナ問題のありようは、ほとんど賽の河原の石積みのような話に感じられる。丁寧に、焦らずに……と何度石を詰み上げても、鬼がやってきて塔を崩してしまうのだ。

しかもその鬼はイスラエル・パレスチナの双方の社会から生み出されることもあり、鬼を支持する世論も一部にはある。鬼というと悪者のようだが、鬼には鬼なりの論理も理想もあるので「やっかい」なのだ(どのスタンスを「鬼」とするかという問題もある)。

賽の河原で石を積む子供を救うのは地蔵菩薩である。イスラエルとパレスチナに救いの手を伸べる地蔵菩薩が現在の国際社会に存在するのかと考えると暗い気持ちになるが、これもまた(鬼と裏表で)双方の社会から産み落とされるのを待つしかないのかもしれない。

それは本書でも30年前にラビンとアラファトが同時代に居合わせたことと、トランプ大統領とイスラエル右派のネタニヤフ首相が同時代に居合わせたことが本書で「鏡像」として語られていることからも連想される。

残念な予言は現実のものに

400ページ近いボリュームのある本書だが、逆に言えばこの問題を丁寧に解説しようと思ったら、これくらいの紙幅が必要であるということの証左でもある。

アメリカとイスラエルの関係、イスラエルと中東諸国の関係性、アメリカにおけるユダヤ人の心境、かつての反ユダヤ主義を懺悔する欧州とその贖罪のダシに使われていると感じるアラブ……などなど、今知りたい情報に目配りが届いている。

読んでいるうちに混乱しそうな用語解説まで備えられており、イスラエル―パレスチナ問題をわずかでも理解したい読者にとってはありがたい工夫が凝らされている。

何より、140字の書き込みや、15分の解説動画では知り得ない機微まで読み取ることができるのは、ユダヤ人である筆者が〈イスラエル人もパレスチナ人も、誰もが平等な権利と安全を保障されるべきだ〉というフェアであろうとする視点を持っているからでもある。

本書の巻末に「解説」寄せた元外交官(現三菱総合研究所主任研究員)・中川浩一氏はこう述べている。

残念ながら2023年は、イスラエルとパレスチナの憎しみと恐怖の連鎖がさらに激しさを増す年になるかもしれない。

「イスラエルについてどう思う?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか?【『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』】 | NHK出版デジタルマガジン

この残念な予言は結果として現実のものとなってしまった。だが、「あそこはもはやどうにもならない」と諦めたら、すべてはそこで終わりになってしまう。

2023年2月末刊の本書は発売後、さまざまな媒体の書評に取り上げられ、版を重ねたという。事態が起きたときに、すぐにこうした良書を手に取れる日本の出版環境に感謝しつつ、「憎しみと恐怖の連鎖」が招く事態の早期収束を願わずにはいられない。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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