相手にしがみつく“悪い好き”にならないために…知っておきたい「愛情と執着」の違い

片思い中の相手でも恋人でも、その人のことを「好きだ」と思うとき、自分のなかにどんな感情が湧き上がるでしょうか。

あたたかい思いが広がるのなら愛情と呼べますが、憎しみや嫌悪が混ざって暗い気持ちであったり、焦りのような強い不安を覚えたりするようなら、それは執着かもしれません。

愛情と執着は、ともに「その人への強い関心」が特徴です。

その「好き」は実はどんな意味を持っているのか、愛情と執着の違いについてお伝えします。

相手の存在を慈しめるのが「好き」の実感

思いを告げていない片思いの状態でも、交際が続いている恋人でも、「この人が好き」という実感があるから関わりを持ちたいと思いますよね。

「好き」はその存在を前向きに受け入れる言葉で、人でなくても物や状態、環境などいろいろな場面で自分の心を充実させてくれます。

恋愛感情を覚える相手への「好き」は、突き詰めれば存在そのものに感謝し、あたたかい気持ちでもって慈しむような穏やかさがある、と筆者は実感しています。

この人がいるからこそ自分のなかに生まれる感情、それが言動につながり、楽しいコミュニケーションを重ねていくことで、ふたりの間には唯一無二の愛情と信頼が育つもの。

本来、「好き」にはそう感じる自分も好意的に受け止める、「その人を好きな自分」にもあたたかい感情を持つ力があり、それが自信を築いていきます。

「正しい愛情」というとなんだか窮屈で型にはまったような硬さを感じますが、相手とどんなつながりで関係を持っているにせよ、「その人と自分を等しく愛する」が叶うことが、幸せな恋愛ではないでしょうか。

愛情と錯覚しやすいものに、「執着」があります。

執着は、どうにもそれから関心が離れず、いつまでもこだわってしがみつくようなネガティブな思いが宿るのが特徴です。

まっすぐな「好き」ではなくその気持ちが「執着」になると、相手をありのままで見ることができず、自分の思い通りに存在することを望み始めます。

関係の結果に「自分の満足」が入るのはどんな恋愛でもそうですが、その人への関心が強すぎて相手の満足を無視して自分だけの充足を求めてしまうのが、執着の正体です。

その人に向ける「好き」が「執着」になっているサインには、どんなものがあるのでしょうか。

こんな気持ちは「執着」かも。気をつけたい自分の状態とは

1: 自分への関心が薄いことが「許せない」

他人と自分は違う人間なら、恋愛関係でもまったく同じ量の「好き」を抱えるのは難しいのが当たり前です。

「好き」の実感の仕方から人それぞれであり、またそれを掴むスピードも違えば出し方もまったく同じとはいかないのが現実。

その「違い」を知ったとき、自分と同じでないことに怒りが湧いたり、「私ばかり好きなのだ」と絶望してしまったりするのは、いき過ぎた関心といえます。

誰だって「好き」の量は等しいことが理想ではあり、そうじゃない相手を見れば寂しさを覚えるのはわかります。

その寂しさが怒りまで成長したり、自分への関心が薄いことに「許せない」のような強い恨みを覚えたりするなら、そこに「愛情」はありません。

自分の思い通りの気持ちを持たない相手を責める気持ちは多少なりとも持つものですが、度が過ぎて「許せない」のような否定的な感情が前に出ると、それは相手の愛情にしがみついていることになります。

あたたかい愛情には、「自分と相手は違うのだ」という前提のもとで向けられる気持ちの量にこだわらない視野の広さがあります。

2: 相手の「こうしたい」を受け入れることができない

たとえば、自分は毎週末会ってデートがしたいけれど、相手には一人で過ごしたい気持ちがあったり趣味に時間を割きたかったり、自分とは違う要求を持つことがあります。

そんなときに、相手の「こうしたい」が違うというだけで「好かれていないのだ」と悲観的になったり、「自分勝手だ」と責めたりするのは、自分のことしか考えていないといえます。

それを相手に伝えて自分に付き合わせて一緒にいることが、果たして本当の充実といえるでしょうか。

「こちらに合わせるのが愛情の証」と本当に考える人がいますが、それでは自分も相手の要求に従って別にあったやりたいことを我慢して付き合うのか、その自分は相手といて幸せだと思えるのか、疑問です。

相手の「こうしたい」が自分と違うとき、あたたかい愛情があればまずその気持ちを尊重します。

「そうなのだね」と受け止めたうえで、「それなら来週は一緒に過ごせる?」など前向きな提案ができるのは、相手が大事にしたいことを等しく自分も大切にしたいと思えるから。

その姿が相手にとっては大きな安心となり、「◯◯時には終わるからそれから会おう」と別の提案が出てくるなど、こちらの一緒に過ごしたい気持ちもまた尊重してくれるものです。

相手の「こうしたい」を受け入れることができないのは、愛情ではなく自分の満足がメインの執着になってはいないでしょうか。

3: 自分の気持ちを「100で受け止めるのが正解」と思っている

相手を強く思えば思うほど、向ける感情を「すべて完璧に受け止めてほしい」と願うのは、誰にでもあることです。

好きだからこそ「受け止めてほしい」と思うのであって、どこでその実感を得るかといえば、「同じように愛してると言ってほしい」「同じようにこれをしてほしい」など、相手のリアクションが不可欠になります。

自分はこう返してほしいと思うのに相手は別のやり方をした、または望む言葉をくれなかったなど、「受け止めてもらえなかった」と感じたときに、強い不満と怒りが執着を育てます。

相手の本音や本心を知ろうとせず、「100で受け止めてくれなかった」だけで「本当は好きじゃないのだ」など責めるのは、愛情とはいえません。

自分がどんな思いを抱えようと、それをどう受け止めるかは相手の自由であり、操作することはできません。

自分だってそのはずで、一方的に「好きならこう返して」と望まれても自分の気持ちと違っていれば、従えないですよね。

関係は対等であり、お互いに受け止め方も返し方も違うのが当たり前、まずはその在り方をまっすぐ見るのが愛情ではないでしょうか。

相手の感じ方を知り、「これがこの人にとっての100なのだ」と理解することが、あたたかい愛情を失わないための道です。

4: 自分への愛情の確認ばかりしたがる

自分が向ける気持ちやそれを伝えることより、こちらに向けられる愛情や関心の大きさばかり確認したがるのも、執着といえます。

「好き」と伝えるより好きと伝えてくれるかどうかを見る、「好きならこうするはず」の思い込みで相手の言動を探る、そんなネガティブな気持ちは、その人と前向きな関係を続けていきたいと思えばできません。

自分への愛情の確認に躍起になるのは、自信がないからです。

「相手に好かれている自分」を実感することで心が大きな充足感を得るのは誰もが同じですが、それを求め過ぎて「伝える側」になることを忘れると、相手は向ける愛情を奪われる一方になります。

伝え続けないと不機嫌になる、そのくせ自分が「好き」を伝えることはしない、そんな関係は健全ではなく、片方にばかり負担がのしかかります。

あたたかい愛情は、まず自分が伝える側になることを避けません。

素直に気持ちを伝えていくこと、愛情を届けることは自分がそうしたいからであり、「それができる自分」に自信を持ちます。

「先に愛情を伝えてくれないと何もできない」ような状態は依存であり、叶えてくれない相手を見て怒りや寂しさをぶつけるのは、愛情ではなく「こうあるべき」の執着に囚われているといえます。

そんな自分を見て相手はどう思うのか、の視点を忘れずにいたいですね。

5: 「傷つけられた自分」にこだわり続ける

執着を大きくする要因の一つに、「元を取りたい」があります。

相手のこんな態度に傷ついた、自分ばかり大変な思いをしている、受けた「痛み」はどれもこの人のせい。こんな思いが、「だから相手は自分に対して責任を取るべき」と愛する理由をこじつけます。

そのとき、自分が向ける思いについては責任を持たないのが執着の証で、相手には「愛していると証明して」と迫るけれど自分はしない、傷つけられた自分は被害者なのだから大事にされるべきとそればかりを浮かべます。

「元を取りたい」気持ちは、「損をしたままでは終われない」のような自分だけが苦しむ現実を何とかしたいから生まれるのであって、そこにあたたかい愛情はあるのでしょうか。

愛されている実感を得ることに「好き」の意味を置いてしまうと、自分が向けて伝える愛情については無頓着のままになり、そんな自分が相手の目にはどう映るのか、ほしい実感を本当に与えてくれるのか、たいていはうまくいかずに終わります。

傷を受けた自分は確かにつらいし相手にはそれを癒やす責任がある、そう思うのであれば、正面からその自分を伝えていくのが解決や解消の最初です。

「あなたのこういう振る舞いに傷ついた」と素直に伝えることで相手はこちらの状態を知り、本当に好きなら変えていこうとします。

それをせずに「愛させる」ことに集中してしまうと、操作や支配を感じた相手はあたたかい愛情を育てることはできません。

「元を取りたい」意識がかえって自分を傷つけるのが実際であり、その執着では望む愛情は手に入らないことを、忘れてはいけません。

愛情は「ふたりで育てる」もの

自分はこの人のことが好きなのだけど、うまくいかないという相談を多く聞いていると、なかには愛情ではなく執着で関係にしがみついている、と感じるものがあります。

言葉に出るのは「自分」がメインであり、相手の在り方や有り様を正しく見ていない、気持ちを確認していない、自分の感情に苦しさを覚えてそれを相手のせいにしている、と感じるケースも少なくありません。

本当はあったはずのあたたかい愛情がどうして執着になったのか、自信のなさから生まれる「愛されたい」の欲求の強さが原因で、見捨てられたくない、愛され続けることで自分の存在の価値を感じたいと、相手の愛情に依存している場合も多くあります。

数多いる他人のなかで、好きな人に近づける、お付き合いまで発展するのは本当に奇跡だと筆者はいつも思いますが、だからこそ「愛されたい」のは等しく相手も持つ気持ちであることを、忘れてはいけません。

あたたかい愛情には、常に相手の存在を慈しむという穏やかな力強さが宿ります。

自分が好かれているかどうかに関わらず、その存在を前向きに受け入れ、「この人が好きだ」と胸を張れる心が自信を作ります。

恋愛はひとりではできないものなら、相手がいることは奇跡、愛情は「ふたりで育てる」意識が幸せな関係には不可欠です。

相手が自分の思い通りに存在することが愛情ではなく、まず自分が向ける気持ちに慈しみを覚えるかどうかが、執着を避ける大切な姿勢。

「いかに愛されているか」の前に「いかに愛しているか」の実感を確かに掴むことができれば、ネガティブな振る舞いは消えていくはずです。

愛情と執着は紙一重であり、感情の扱いを間違えると悪い関わりばかり前に出ることになります。

執着でもって好きな相手と関係を続けることは、居心地のよさも穏やかな愛情の存在も実感することから遠ざかり、共依存のような苦しみがメインの関係に発展するおそれもあります。

あたたかい愛情を忘れないためには、「伝え届ける側」でいることを意識するのも、健全な関係には欠かせない姿勢です。

(mimot.(ミモット)/ 弘田 香)

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