シングルヒットに縁のないカリスマ【ブルース・スプリングスティーン】を売るために!  ブルース・スプリングスティーンのデビュー50周年記念盤リリース記念!

「ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-」の中でディレクターとして関わったシングルは11枚

今回、ブルース・スプリングスティーンのデビュー50周年記念盤としてリリースされる『ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-』の中で、私自身が現場のディレクターとして発売に関わったものは11枚しかありませんが、特に『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』から7枚切られたシングル盤は、B面にはアルバム未収録の未発表音源をカップリングするなど、世界中のマニアックなファンを喜ばせるような仕掛けでアメリカでも発売してきました。発売と同時にシングル曲以外にアルバム収録曲もエアプレイをするラジオ局では、ほぼ全曲が毎日のようにかかるほどでした。この反応を見つつ、アメリカCBSは次のシングル曲を決めていくのですが、アルバム収録曲をB面にすると、いずれ曲が足りなくなるのではないかという心配もあり、なおかつ彼のファンはブートレグはじめブルースの音源ならなんでも揃えたくなる気質をもっていることに期待した上でのシングル発売でした。

私としては、決して安くはないシングル盤をファンのみなさんに何度も買ってもらうのも心苦しく、毎回ではありませんが、シングル盤発売の度にファンのみなさんに喜んでもらえる付加価値をつけたいと知恵を絞っていました。実際、私自身も大ファンでしたので、自分が欲しいと思うものはきっとファンも同じだろう、と全米ツアーの日程やセットリストなどを掲載したり、ポストカード5枚セット封入したりと、ファンクラブ的な発想で仕事していたことは明解に覚えています。

音楽発信側にとっては究極の目的は、ヒット曲の創出

私のレコード会社の現場時代は、まるまる80年代。洋楽部門でディレクター職に就いていました。いわゆる、編成制作業務です。日本盤を発売することを決定し、商品名(邦題)をつけ、解説原稿や対訳の発注、帯の原稿から営業や宣伝資料の作成など行います。

そしてアーティストのマーケティング担当でもありますから、ここ日本でどうやって売り出していくかのプランニングを立案します。いわゆるアーティストデヴェロップメントを命題としていますが、平たく言うと「担当アーティストのアルバムをできるだけ沢山売りなさい」ということがミッションでした。

洋楽市場は70年代からアルバムマーケットになっていました。アルバムを売る為に、収録曲からヒットポテンシャルの高い曲をシングル曲として選び宣伝します。つまりシングル盤として発売し、そしてこれがヒットすると、アルバムもより売れるという図式になっていました。シングル盤の売り上げはオマケぐらいの位置づけでした。

もちろん、ピンク・フロイドなどのプログレ系や、ブルース・スプリングスティーンのように、ある独特の世界観と熱狂的なファン層をもつアーティストにとっては、シングルヒット曲の存在が絶対必要というわけではありませんが、それでもヒット曲があったら、アルバムは売れるのです。実際ピンク・フロイドですら「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」という大ヒットシングル曲があったので、2枚組で高価な商品であったにも拘わらずアルバム、『ザ・ウォール』は大ヒットしました。

シングル盤として世に出る出ないに関わらず、“ヒット曲の創出” は、音楽発信側にとっては究極の目的ですし、デジタルでサブスク主流になった現代でもここは全く同じです。

そんな状況の中、当時のAM局は深夜放送枠に各社人気番組があり、60年代から数々の洋楽ヒット曲はここから生まれていました。そして局のプッシュ曲に選ばれるためには、シングル盤として市販されることがマストだったのです。もちろんFM局ではアルバムからのオンエアもされますが、ユーザーのど真ん中に切り込むには、AM深夜放送の力が必要でした。ちなみに番組制作者は我々とは立場は違いますが、共に “盟友” という絆があったのも事実です。

シングルヒット曲には縁がなかったブルース・スプリングスティーン

カリスマ的な人気を持ちアルバムの評価も高いブルース・スプリングスティーンといえども、残念ながらヒット曲には縁がなかったのです。

アルバム『明日なき暴走』という我々を興奮させてくれたタイトル曲ですら、ファンにはアンセムとしても、残念ながら一般的にはヒット曲と呼べるレベルではないし、実にシングルカットにして5枚目にあたる『ザ・リバー』からの「ハングリーハート」が登場して、やっとそれが手に入ったのです。

初期作品の「光に目もくらみ」が、マンフレッド・マンズ・アースバンドのカバーで1976年に全米ナンバーワンを獲得し、何組ものアーティストが彼の作品をカバーしているということは作家としての評価も高いという証明。といっても、皮肉なことに、彼のヴァージョンではカスリもしないし、名曲と呼ばれるものは沢山あるのに、何故? と思わずグチ的な疑問もでるほど、シングルヒット曲には縁がないブルースでした。

極めて私感ですが、気楽に口ずさめることができるかどうか、がヒットポテンシャルに大きく関わる要素とするならば、「明日なき暴走」はいくら格好いい曲で大好きでも、ファンですら簡単には歌えないし、「涙のサンダーロード」は歌詞の密度も濃すぎでやたら長い曲。その当時の彼の作品は言葉が機関銃のように連発されているし、そもそもそこが私もファンも好きなはずですが、魂を持っていかれるような熱量タップリの歌い方が、一般的には、ちょっと重すぎ熱すぎ、と感じられているのかも知れません。

そういう中で、覚えやすく気楽に歌えるメロディをもつ、シングル曲「ハングリー・ハート」の登場は、レコード会社の我々にとって大歓迎でした。結果ブルース初の大ヒットシングルとなり、全米チャートも5位まで上昇。もちろん日本でも大ヒット。ライブ会場ではお約束の観客の大合唱もあり、ファンとアーティストが一体化して大盛り上がりします。40年以上たった今でも、セットリストから絶対外せない曲となっています。

7枚のシングルカット、全てが大ヒットしたアルバム「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」

そしてブルースのディレクターとしては、私が初めて担当したアルバムが『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』でした。この以前にも短い期間ですが『ザ・リバー』の途中から担当になり、シングル「アイ・ウォナ・マリー・ユー」を発売していますし、チャリティアルバム『イン・ハーモニー2』に収録されていた「サンタが街へやってくる」を市販はNGでしたが、クリスマス時期にラジオ局配布用のDJコピーを制作したこともあります。

アルバムのマスターテープが到着するとスタジオで音のチェックをします。『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』の音楽を最初に聴いた時、ディレクターとして、“やった!” という喜びを感じていました。スプリングスティーンの宣伝活動での我々の苦労は、なにしろヒット曲を出すことの難しさにあったわけですから “このアルバムは売れるぞ” と思うより先に “シングルカットできそうな曲が沢山入っていた” ということの安堵感でした。

これはファンの間では有名なエピソードですが、苦労の末、アルバムを完成させた後に、プロデユーサーでありマネージャーのジョン・ランダウから、「シングル向きの曲がないから、もっとポップな曲をいれるべきではないか」と、プレッシャーかけられ、渋々ホテルに籠って一晩で書きあげた曲があります。それが、アルバムからのファーストシングルとなった「ダンシング・イン・ザ・ダーク」でした。

実際結果としてこの12曲収録のアルバムから7枚のシングルがカットされ、いずれも大ヒット。決してシングル曲候補がなかったわけではないはず。勝手な推測ですが、ジョンの想いは、アルバム発表と同時に全米ツアーをスタートさせるにあたり、ファーストシングルはダントツにポップでキャッチーな曲でなければならない、という元ジャーナリストとしてのヒット感覚から彼に与えたプレッシャーだったのかも知れません。さすがジョンです。この曲はブルースのシングル史上最高位、全米TOP100の2位まで上昇しています。

当時のそんな状況を思い出しながらシングルコレクションのために復刻されたジャケットを感慨深く眺めています。これらのシングル盤は、我々レコード会社にとってヒットをつくるためのツールでしたが、メディアを使ってリスナーに攻撃をかける、という意味では武器であり弾薬でした。現場から離れて30年以上経過すると、なんだか抱きしめてあげたい、愛おしい仲間のようにも思えるのです。

カタリベ: 喜久野俊和

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