大河『家康』家康の見事な「危機突破能力」とは 私婚問題、諸大名の対立を乗り切る 識者が語る

NHK大河ドラマ「どうする家康」第40話は「天下人家康」。豊臣秀吉死後の混乱が描かれていました。

慶長3年(1598)8月、秀吉はその生涯を閉じました。秀吉が後事を託したのは、豊臣重臣の徳川家康(松本潤)と前田利家でした。豊臣政権の「五大老・五奉行」制のもとで、秀吉死後に最初に取り組まれた「大仕事」は、朝鮮からの撤兵でした。秀吉の死は秘されて、朝鮮からの「日本軍」の撤退が敢行されたのです(年末までにほぼ撤退は完了)。

さて、年明けには、豊臣秀頼(秀吉の子)は、傅役の前田利家と共に、伏見城から大坂城に入ります。家康もこれに従いますが、すぐに伏見に帰っています。家康は秀吉亡き後、着実に地固めを行っていました。家康の六男・松平忠輝(母は、家康の側室・茶阿局)と伊達政宗の娘との縁組、福島正則の養子と、蜂須賀家政の息子に、家康の養女を嫁がせる約束をしたのです。秀吉の承諾なき、諸大名の勝手な婚姻(私婚)はご法度でしたが、家康はすぐにそれに背いたのです。

この事を四大老(前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)や五奉行(前田玄以・浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家)は問題視。家康を糾弾します。家康はこの危機を起請文(誓約書)を彼らに提出することで、乗り切ります。

すなわち「今度の縁組のことについては、貴方たちの言うことを承知した。今度とも恨みに思わず、以前と変わりなく、親しくしたい」「太閤様(秀吉)が定めた掟に背いた時は、10人の者が聞きつけ次第、互いに意見するようにする。それでも納得しなければ、残りの者が一同に意見すること」

「今後、掟に背いた者は、10人が取り調べた上で、罪科に処すこと」との内容の起請文を家康は提出したのでした(1599年2月5日)。自分(家康)の誤りを認めたうえで、今後は掟を守ることや、掟に背いた際の対応策が記されています。

これにより、家康の「私婚」問題は鎮静化します。同年閏3月、「五大老」の1人・前田利家が病没。その直後、豊臣系武将(細川忠興・蜂須賀家政・福島正則・藤堂高虎・加藤清正・浅野幸長・黒田長政)が、大坂にいる石田三成を襲撃せんとする事件が起こります。

中村七之助が演じる三成は伏見城内の自分の屋敷に逃げ込みますが、この対立を調停したのは家康でした。三成は居城がある佐和山(滋賀県彦根市)に隠居させることにして、対立を収めたのです。見事な調停能力と言えましょう。閏3月13日、伏見城に入った家康を「天下殿」(天下人)になったと認識した当時の人もおりました。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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