茨城県かすみがうら市出身の法律家、貝塚徳之助(1870~1963年)の生涯を紹介する企画展が、同市坂の市歴史博物館で開かれている。検察官、裁判官、弁護士を歴任し、90歳近くまで60年以上活躍した業績や、地元に多額の寄付をした篤志家としての横顔を、発見された資料約4千点を基にたどる。11月5日まで。
貝塚は1870(明治3)年、加茂村の久保田家で生まれた。英吉利(いぎりす)法律学校(後の中央大)の校外生として学び、同校から改称した東京法学院を首席で卒業した。92年、佐賀村の貝塚家の養子となった。
「判事検事登用試験」の第1回に93年合格し、司法官試補(検事代理)として長野県の松本区裁(現松本簡裁)に赴任。96年に第2回試験に及第し検事(検察官)となった。山梨で判事(裁判官)に転じる。北海道の函館地裁判事部長時代、函館を中心に2万人の構成員がいた博徒「丸茂一家」の親分ら81人が賭博で摘発された事件を担当した。
東京に転勤した1911年に依願退職。土浦町(現茨城県土浦市)で弁護士事務所を開設した。将来を嘱望された義弟が08年に21歳で早世したことや、10年の大水害での貝塚家浸水などが、帰郷の一因となった可能性があるという。
弁護士としては刑事、民事の両方を担当。資料からは温厚な人柄や多忙な業務、貧しい人を無報酬で弁護した様子などがうかがえる。
土浦町議を務め、税務署管内の納税額トップになるなど名士となり、地元に何度も寄付をした。戦前の記録には、小学校や奉安殿の建築費、役場や駐在所の電話架設費、土浦警察署の自転車購入費、土浦町の水害対策費などが残る。
56年には土浦の料亭「霞月楼」で法曹60年の祝賀会が開かれた。日弁連の会報や出島村史に「百(歳)以上も弁護士を続ける」「弁護を依頼されれば新しい力が湧き上がって来る」と、職務への意欲が語られている。
展示室には多くの写真や大礼服、弁護士記章(バッジ)、勲章が並ぶ。没後60年に当たる今年、企画展を担当した大久保隆史学芸員は「正義を尽くし、地域に大きく貢献し、エネルギッシュに90歳近くまで仕事をした。まぶしいくらいの姿勢を伝えたい」と話した。
11月4日には同博物館で大久保学芸員の講演がある。