W杯予選「ドーハの悲劇」から30年!サッカー日本代表に受け継がれる消えることなきDNA  「ドーハの悲劇」から30年、歴史的な試合を振り返る

__新・黄金の6年間 ~vol.18 ■ 1994 FIFAワールドカップ アジア地区最終予選 日本vsイラク戦 開催日:1993年10月28日__

「ドーハの悲劇」から30年、1993年はW杯初出場まであと一歩と迫った歴史的な年

サッカー日本代表は、28、9年ごとに伝説の試合を演じる。

最初は、1936年のベルリン・オリンピックだった。いわゆる「ヒトラーのオリンピック」と称される大会だが、日本は早稲田大学を中心とする学生主体のチームを編成。初めて五輪のサッカー競技に挑み、優勝候補の一角と言われたスウェーデンを破る大金星をあげる。かの「ベルリンの奇跡」である。

次は、その28年後の1964年の東京オリンピックだった。開催国・日本は地区予選を免除されるも、世界との実力差は大きく、無様な試合は見せられないと、西ドイツ(現・ドイツ)からサッカー指導者デットマール・クラマーを招聘。彼の指導の甲斐あって、日本は強豪アルゼンチンに逆転勝利する。かの「東京の奇跡」である。

3度目は、その29年後の1993年―― FIFA ワールドカップ・アメリカ大会のアジア地区最終予選である。日本は、勝てばW杯初出場となる対イラク戦で、試合終了間際のロスタイムでまさかの失点。無念の引き分けで予選敗退となった。かの「ドーハの悲劇」である。同試合を放送したテレビ東京は、サッカー中継史上最高視聴率(当時)となる48.1%を記録。この数字は今もテレ東史上最高視聴率である。

そう、今日10月28日は、そんな「ドーハの悲劇」から30年。1993年は、Jリーグが幕開けた “Jリーグ元年” でもあり、1968年のメキシコ・オリンピックの銅メダル以降、長く暗黒時代にあったサッカー日本代表が、ようやく復活の兆しを見せて、W杯初出場まであと一歩と迫った歴史的な年だった。

僕は以前、リマインダーに『Jリーグ開幕30周年!当時のチェアマン 川淵三郎の開会宣言はなんとわずか30秒』と題するコラムを書いた。それは低迷する日本サッカーの起爆剤となるべく、Jリーグが発足するまでの話だったが、今回は、もう一つの柱 “サッカー日本代表” の話である。その序章のフィナーレが、いわば「ドーハの悲劇」だった。

レジェンド―― “カズ”、伝説の試合を振り返るにはまず、あの男しかいない

さて、伝説の試合を振り返るにあたり、どこから話を始めようか。やはり、あの男しかいないだろう。今も現役のサッカー選手として活躍するレジェンド―― “カズ” こと三浦知良選手だ。彼がプロ選手として既にスターの片鱗を見せていた南米・ブラジルの地から、日本へ凱旋するのが1990年7月である。

三浦知良―― 1967年2月26日、静岡県静岡市生まれ。兄は元プロサッカー選手の三浦泰年。小学校時代に父方の伯父の影響でサッカーを始め、高校1年の冬―― 1982年12月に高校を中退、単身ブラジルへ渡る。ジュベントスのユースを皮切りに、86年には、かつてペレも在籍した名門、サントスFCとプロ契約。その後、複数のクラブチームを渡り歩いて実力を磨き、90年2月に再び古巣・サントスFCへ復帰。華々しい活躍を見せ、ブラジルのサッカー専門誌『プラカー』の表紙を飾る――。

1990年7月、そんなブラジルでの評判が日本でも伝えられる中―― カズが凱旋帰国する。JSL(日本サッカーリーグ)の読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)と契約、2年連続リーグ優勝に貢献する。92年には、翌年開幕する “Jリーグ” のプレ大会「Jリーグカップ」でも同クラブを優勝に導き、決勝ゴールを決めた彼は、大会MVPに選ばれた。

日本サッカー界は、ブラジル帰りの新たなスターの誕生に沸いた。ある意味、日本サッカーの暗黒の80年代を知らない彼は、日本人にとって “ゲームチェンジャー” に映った。精悍なマスク、全身にみなぎるオーラ、ゴール後に魅せる華麗な “カズダンス” ――。グラウンドを離れると、アルマーニを着こなし、ポルシェのハンドルを握り、田原俊彦ら有名芸能人と付き合う彼は、それまでの日本のサッカー選手と全く違った。彼の存在自体が、やがて来る「新・黄金の6年間」(1993年から98年の6年間、エンタメやスポーツ界でニューカマーたちが次々とビッグヒットを放った時代)の到来を予感させた。

カズの人気にけん引されるような日本代表チームの素晴らしい活躍

そして―― そんなカズの人気にけん引されるように、日本代表チームも素晴らしい活躍を見せる。1992年5月、オランダ出身のハンス・オフトが外国人として初の日本代表監督に就任すると、同年8月、中国・北京で行われた日本・中国・韓国・北朝鮮の4ヶ国による「ダイナスティカップ」で、日本は決勝で韓国をPK戦の末に破って初優勝。日本代表として、初の国際大会の優勝だった。更に、その2ヶ月後―― 広島で行われた「AFCアジアカップ」でも日本は初優勝。両大会とも、MVPに選ばれたのはカズだった。

1993年4月、翌年開催される「1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会」のアジア地区予選が始まる。オフト監督が選んだ日本代表の主要メンバーは―― GKが守護神・松永成立、DFが井原正巳にキャプテン柱谷哲二、MFがゲームメイクのラモス瑠偉に “ダイナモ” 北澤豪、ボランチに森保一、FW陣が長谷川健太、福田正博、武田修宏、高木琢也、“ゴン” 中山雅史、そして―― カズだった。ヴェルディ川崎から6人、清水エスパルスから4人、横浜マリノスから3人と、Jリーグの強豪チームからの選出が多かった。

日本は1次予選をグループFで戦い、見事1位で突破する。その時のゴール数はカズ9点、高木7点、福田3点、井原2点―― 等々。5月には、満を持してJリーグが開幕し、この時点で日本サッカーの盛り上がりは頂点を迎える。そして、その勢いのまま、日本代表チームも10月、カタール・ドーハで行われるアジア地区最終予選へ出発。本大会の出場切符は、日本・サウジアラビア・イラン・北朝鮮・韓国・イラクの6ヶ国のうち、リーグ戦の上位2ヶ国である。

日本中が、日本代表のW杯初出場を信じていた

最終予選の日本戦は、全試合テレビ中継されることになった。初戦から順に日本テレビ(サウジアラビア戦)、テレビ朝日(イラン戦)、TBS(北朝鮮戦)、フジテレビ(韓国戦)、テレビ東京(イラク戦)と、民放5局の総力体制。これだけでも当時のサッカーに対する国民的関心の高さが分かる。前年の「ダイナスティカップ」と「アジアカップ」の初優勝から、年が明けてのJリーグ開幕、そしてW杯の最終予選と、そのムーブメントは上昇カーブを描いていた。日本中が、日本代表のW杯初出場を信じていた。

この年、そんな日本サッカーの盛り上がりを象徴する歌が大ヒットした。スタジオミュージシャンからなるユニット “THE WAVES” が歌う、日本サッカー協会公認 '93日本代表オフィシャル応援歌――「WE ARE THE CHAMP ~THE NAME OF THE GAME~」である。

 OLE OLE OLE OLE WE ARE THE CHAMP
 WE ARE THE CHAMPIONS
 OLE OLE OLE OLE WE ARE THE CHAMP
 WE ARE THE CHAMPIONS
 OLE OLE OLE OLE WE ARE THE CHAMP
 NIPPON!! NIPPON!!

原曲はメキシコ発祥とされており、南米や欧州ではサッカーを始めとする様々なスポーツの応援歌として歌われていた。同曲はそのカバーである。リリースは、1993年4月7日。オリコン最高6位、70万枚を超えるセールスを記録するが、それ以上にテレビ番組等でサッカー絡みの映像が流れる際、必ず同曲が使われたのを覚えている。ちなみに、同年で最も売れたナンバーはCHAGE&ASKAの「YAH YAH YAH」の240万枚だが、国民的ヒットソングという括りなら、圧倒的に「WE ARE THE CHAMP」じゃないだろうか――。

アジア地区最終予選、こで負けたらW杯への出場はほぼ断たれる

閑話休題。
10月15日、アジア地区最終予選が始まった。だが―― 日本は出だしでつまずく。初戦のサウジアラビア戦は0-0で引き分け、続くイラン戦は1-2で落としたのだ。2戦を消化した時点で、日本は6ヶ国中最下位と、早くも崖っぷちに立たされた。第3戦の相手は北朝鮮である。ここで負けたら、W杯への出場はほぼ断たれる。

しかし、ここでもあの男がゲームチェンジャーとなった。カズである。この試合、彼は2得点をあげる。更に、累積警告で出場停止となった高木琢也に代え、オフト監督はイラン戦終了間際にゴールを決めた中山雅史をスタメンに起用。彼も得点して、3-0と快勝する。

首の皮一枚繋がった日本は、つづく第4戦で宿敵・韓国と対決。過去の対戦成績で大きく離され、更にW杯とオリンピックの地区予選で一度も勝ったことのない難敵だったが、ここでもカズが1ゴールを決め、日本はこれを守り切り1-0で勝利する。累積警告で出場停止となった森保に代わり、先発出場した北澤が、闘志あふれるプレーで何度も韓国の攻撃の芽を摘んだシーンが印象的だった。

運命の日、1993年10月28日

日本は6ヶ国中トップに立った。残すは最終戦のイラク戦である。6位の北朝鮮以外、まだ5ヶ国に出場の望みがあったが、事実上、上位3ヶ国―― 日本・サウジアラビア・韓国の争いに絞られた。その中で、日本は引き分けでも韓国が2点差以上で北朝鮮に勝利しない限り、2位以内が確定するため、最も優位に立っていた。そして―― 運命の日、1993年10月28日を迎える。

ドーハと日本は6時間の時差がある。キックオフは現地時間の午後4時15分―― その15分前の日本時間の午後10時、テレ東の放送が始まった。実況は同局の久保田光彦アナ、解説は元古河電工の前田秀樹サンである。サウジと韓国のそれぞれの試合も同時刻に行われるため、深夜0時過ぎには本大会の出場国が決まる算段だった。先発メンバーは―― GK松永に、DFが井原、柱谷、堀池巧、勝矢寿延、MFがラモス、森保、吉田光則、FWが長谷川、ゴン、そしてカズである。

キックオフの笛が鳴った。スタジアムの観客は9割以上がイラクで、日本のサポーターは1割にも満たない圧倒的アウェイ。そんな中、前半5分、日本はゴンのポストプレーを起点に、長谷川がシュートを放ち、クロスバーに弾かれたところをカズが低い位置からヘディング―― 早々に1点を先取する。その後、イラクは猛反撃を見せるが、これを抑えて前半終了。その頃、他会場は、サウジ2-1イラン、韓国0-0北朝鮮と、そちらも日本優位の状況だった。仮に日本が後半、イラクに追いつかれても、韓国がここから2点差で北朝鮮に勝つのは難しそうだ。

しかし―― その願いはあっさりと崩れる。後半8分、まず久保田アナから、韓国が立て続けに2点をあげたことが告げられる。そして直後、イラクがゴール前にロングパスを入れてシュート―― 同点に追いつかれる。このまま試合を終えると、日本は得失点差で韓国を下回り、本大会に進めない。選手たちは焦りの色を見せるが、イラクの猛攻は休まらない。後半19分にはキーパー松永がかわされ、無人のゴールにイラクがシュート―― 運よくゴールポストに救われる。

嫌な時間が続いた。だが、それを救ったのは、今大会のラッキーボーイのゴンだった。後半24分、ゴール前でラモスが出したスルーパスに追いついてシュート―― 起死回生の勝ち越しだった(ぶっちゃけ、オフサイドとは思いますが、まぁ、それはそれ)。この時、残り20分強。日本はこのリードを守り切れば、W杯の切符を手にできる。

もちろん、そう簡単にはいかない。イラクが猛然と日本ゴールに襲い掛かる。ラモスと柱谷は、堪らずベンチに「北澤(を出せ)!」と叫ぶが、オフトは動かない。そうこうするうち後半36分、オフトは中山に代えて武田修宏を投入する。その瞬間、恐らく日本中のテレビの前のお茶の間は「武田かよ!」と叫んだに違いない。「守りを固めるのではなく、追加点を狙うのか?」――

後に、キャプテンの柱谷はこうオフトを庇っている。「自分も監督の立場なら、ああしたかもしれない。あの時、3点目が入っていれば、イラクは戦意を喪失した」―― だが、日本は追加点を奪えず、一方のイラクの攻撃はますます激しくなる。後半40分、イラクは右サイドからミドルシュートを放ち、辛くも松永が弾いて、堀池がヘディングで外に押し出した。

神様はそう簡単にはさせるはずがない

試合終了まで残り5分―― 本来なら守りに徹する場面だが、選手たちは浮足立ち、明らかに統率が取れていなかった。日本はボールをキープせず、中途半端に攻めては、その度にイラクにボールを奪われ、再三ピンチを招いていた。

後半43分、イラクのボールがゴールラインを割り、日本のゴールキックに。残り2分を切り、実況の久保田アナにも少し余裕が生まれた。

久保田「前田さん、43分です」
前田「あと2分!」
久保田「どうですか。ゴールデンゲートが見えてきましたかね(笑)」
前田「そうですね…… でも、まだ一発がありますからね」

図らずも、この予言は2分後に本当になるが、選手たちはおろか、お茶の間で見ている僕らも誰も想像していない。

後半44分10秒、ラモスにボールが渡る。今の日本代表なら100%キープする場面だが、ラモスはドリブルで上がる。後にオフトはこう証言している。

「私はゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」

ラモスは右サイドの武田にボールを送る。一旦、ラモスに戻す武田。しかし、ラモスはキープすることなく、再びダイレクトに武田に返す。ピッチを駆け上がる武田。そしてゴール前の中央に蹴り込むが―― 誰もいない。またもイラクにボールが渡る。この時点で残り30秒。嫌な予感がするが、ここで森保がボールをカットして、再び日本ボールに。そしてラモスにボールを渡す。残り20秒――。

問題のシーンは、ここからである。ラモスは左サイドのカズに上げようとするも、中途半端にふわりと上がるパスになり、イラクに取られる。残り10秒―― 猛然と日本ゴールに迫るイラク。強烈なシュート―― これを松永がスーパーセーブで弾く。万事休すと思われたが、まだサッカーの神様は日本を見捨てていなかったのだ。

久保田「手元の時計は45分になろうとしています」

ロスタイムに入った。次のイラクのコーナーキックが最後の1プレーになる。ゴール前を固める日本。だが、ここでイラクのキッカーはセンターに上げず、ショートコーナーに蹴り出す。不意をつかれた日本はカズがカットに入るも、かわされ、中央にフワリとボールが上がる。これをピンポイントでイラクのサムランがヘディングで合わせる。ボールは緩やかな放物線を描いてゴールに吸い込まれた――

久保田「ヘディングシュート!…… 決まったぁ!」

時に、90分17秒―― この瞬間、現地で見ていた川淵三郎サンは、

「ああ、やっぱりな。神様はそう(簡単には)させるはずはない」

―― と思ったという。

「ドーハの悲劇」、それは伝説のゲームの呼び名となった

ピッチに倒れ込む日本選手たち。ここから30秒間、久保田アナはひと言も発することができなかった。日本にいるテレ東のスタッフたちは、放送事故だと思ったらしい。その夜、現地で観戦した読売新聞の塩見要次郎記者は、ホテルの部屋で「ドーハの悲劇」と題した記事を一気に書き上げた。やがて、それは伝説のゲームの呼び名となった。

あの時、ピッチにいた一人、森保一が日本代表の監督として、カタールW杯で奇しくも、あの時と同じスタジアムで強豪・ドイツを破る「ドーハの歓喜」を成し遂げるのは、29年後の話である。

カタリベ: 指南役

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