日豪の懸け橋となった軍艦引き揚げ事業|松平みな 終戦から17年、オーストラリアのダーウィン湾に沈んだ連合軍艦船を引き揚げたのは、日本の会社だった――。日豪の友好関係の懸け橋となった知られざる、日本のサルベージ・解撤業会社の秘話!

日章旗を掲げて敵国へ

昭和17年(1942)、日本海軍はハワイ真珠湾攻撃の次に、オーストラリアのダーウィン湾に係留していた連合軍七艦船を爆撃し、沈没させました。

それから終戦を挟んで17年経っても、オーストラリアには軍艦をサルベージする能力や技術がなかったため、沈没艦は放置したまま。しかし、湾内の航行に支障があり、もう何とかしなければとオーストラリア政府が考え、引き揚げ技術のある世界中の国や企業に呼びかけました。

それに応じたのが、他でもない、沈没させた日本の会社、藤田海事工業株式会社でした。藤田柳吾氏が創業者のサルベージ・解撤業を営む会社でした。

このオーストラリアでの事業に名乗り出て、昭和34(1959)年6月からおよそ2年6カ月をかけて、ダーウィン湾に沈んでいる艦船を次々と引き揚げていったのです。

一体、どのような経緯でオーストラリア政府から藤田海事工業株式会社へ話がいったのか。日本政府からなのか、それとも会社が自ら手を挙げたのか、そのあたりの経緯は不明ですし、藤田柳吾氏が何を考えていたのかも残されていません。息子の銑一郎氏も聞いていないそうです。

日章旗を掲げてダーウィン湾へ入っていったという話を聞いた時、私は同じ日本人として晴れやかで、胸躍りました。

当時は終戦から14年しか経っておらず、そのうえ日本はオーストラリアにとっては敵国。当然、現地の人々からの敵愾心をひしひしと感じるほどだったようです。

しかし、毎日黙々と作業をする日本人の姿を見て、そしてまた成果を上げていくにつれ、徐々に注目され、見物客も集まり、次第に敵愾心は薄れていった。

特に、最初に行ったイギリスの油槽船の引き揚げが大きかったようです。作業員は現地に住む場所が必要だったのですが、陸上は高額の税金を課せられてしまう。何か打開案がないかと探しているうちに、横倒しに沈没している油槽船を使おうというアイデアが出たのです。

海底の破損部分を水中溶接でふさぎ、船尾の重いエンジン部分を切り落とし、数十あるタンクにコンプレッサーで空気を送り込んで浮かしていく。結果、横倒しの状態だった船が浮かび上がると同時に、正常の形に起き上がった。そして、浮かんだ甲板の上に材木で住宅を作ったのです。

見物していたオーストラリア人も驚き、真面目に働く作業員の姿と、思いがけない成果などから、日本人に対する感情や態度が柔らかくなっていったそうです。

紫電改をそのまま引き揚げ

引き揚げ作業はどれも大変でしたが、最後の一隻である「ピアリー」はアメリカの駆逐艦で、そのアメリカから「触るな」と警告された。実は、ピアリーは湾内航行で一番重要な検疫錨地の場所に沈んでいるため、ある意味でもっとも邪魔な艦船だったのです。

アメリカの許可がなければ何もできない。藤田氏は帰国するしかないと準備に入っていたのですが、そこでなんとオーストラリア政府が介入してきました。曰く、「日豪友好のために、ピアリー引き揚げ作業を無償でやってくれ」。

そもそもこの艦船引き揚げ事業は、引き揚げた鉄を会社が受け取るという条件でした。当時、日本は復興に必要な鉄が不足していたのです。つまり引き揚げるものがもらえなければ、会社の利益にも国益にもならない。引き揚げのプロとはいえ、命をかけ、一体なぜ無償でやらなければならないのか。

しかし、藤田柳吾氏はしばらく考えたのち、やることを決断。その理由を、息子の銑一郎氏ははっきりとは聞いていませんが、しかし「父らしい」と思ったそうです。計画どおりに物事を進め、理不尽なことにも真っ向から反対する人物でしたが、一方で国家や人命にかかわる問題だと、人情的に妥協する面があったと言います。

作業終了後、北部準州総督のロジャー・ノット氏から「日豪親善に資するところ大」として、昭和36(1961)年に感謝状を授与されました。さらに翌年、オーストラリア艦隊が日本を親善訪問した際に、艦隊司令長官が藤田氏と家族を招待しました。

それを聞いて、柳吾氏の侍気質といったものを感じ、それは銑一郎氏にも受け継がれていると思います。

昭和53(1978)年、愛媛県の久良湾内で、地元ダイバーが海底41メートルに沈んでいる飛行機を発見しました。調査をしてみると、なんとそれは旧日本海軍第三四三航空隊所属の紫電改だったのです。

翌年、紫電改の引き揚げを藤田海事工業株式会社に頼みたいと依頼がきたのですが、「飛行機の形を壊さず、そのまま引き揚げてほしい」とのことでした。紫電改はアメリカに三機現存しているが、日本にはこの一機のみ。何とか飛行機として保存したい、という思いからのものです。

社長の藤田柳吾氏は、この難題を正直断りたかったそうです。しかし現場責任者であった息子の銑一郎氏がやろうと決めて、父を説得し、許可を得ました。

綿密な計画を立て、引き揚げは無事に成功。現在も、その紫電改は愛媛県南宇和郡にある馬瀬山公園に展示されています。

藤田サルベージは親子二代かけて、日本の歴史を見事に世界に知らしめたことになります。

日参して熱意を伝える

私は日本からオーストラリアに移住してから36年になります。その間にオーストラリアの全ての州を訪ねており、最後に残っていたのがダーウィンでした。この地に軍艦を引き揚げた日本の会社があったという話は聞いていたので、それを調べるのも目的の一つでした。

図書館などで藤田サルベージについて改めて調べてみると、こんな日本人がいたのかと驚きました。この話は日本ではもちろん、オーストラリアでもダーウィンでこそ知られていますが、たとえばシドニーの大学で生徒や先生に「こういう話を知っていますか」と訊いても、ほとんどの人が知りませんでした。

日豪の懸け橋になったこの歴史的事実を書き残さねばならない……そう思い、取材を開始しました。

藤田銑一郎氏がご存命で、お話を聞くことができました。この話を書きたいと言ったら、「ぜひ松平さんに書いてほしい」と言ってくださって、うれしかったです。

銑一郎氏ご本人もとても大きな方でお優しかったのですが、父・柳吾氏のことを話されている時は、誇らしさのようなものが滲み出ていました。

そして、サルベージ作業の話を聞いていると、その仕事全体の日本人ならではの真面目で無駄のない仕事ぶり、それによる見事な成果などに鳥肌が立つ思いをしました。三十六年住んでいるため、オーストラリア人の仕事ぶりというのはよくわかっているので、当時の人たちがいかに日本人の仕事が奇跡のようだと思ったのか、よくわかります。

取材の過程で苦労したのは、やはり実物を見ていないことでした。お話を聞いて想像をするだけ。藤田サルベージが持っていた写真や資料はすべてオーストラリア政府に寄贈していたため、アーカイブセンターがなかなか見せてくれなかったのです。「たかが物書きに見せるわけがない」という態度でした。

でも、諦めるわけにはいかない。どうしても必要だと、宿泊しているダーウィンのホテルから毎日タクシーで一時間かけて通い、三日目についに向こうが折れました。

「移動だけでそんなにお金を使って大丈夫なの?」と訊かれたので、「今日はハンバーグも食べられない、水だけ!」と返して大笑いされました。熱意が通じて、見せていただけたのかなと思います。

2022年11月に脱稿し、校正に入っていた12月25日に、藤田銑一郎氏の訃報が届きました。ドラフトをお読みいただき、「嬉しそうだった」とご家族の方に教えていただいたのですが、ぜひ本書をお渡ししたかったです。

中国への港賃借は大失敗

1987年にオーストラリアに移住した時は大学で教鞭をとっていたのですが、当時のこちらの大学は生徒が職を得るまでいるだけで、職を得たらすぐにやめてしまう。そうこうしているうちに、生徒がいなくなってしまい、大学を首に(笑)。仕方ないので、自分で塾を始め、教える日々を過ごしていました。

当時はまだ戦争を引きずっていたので、”よそ者”扱いされているのがわかりました。私は幸運にも差別的な扱いはされたことはなかったのですが、周りの日本人に相談をされることはよくありました。

それから40年近く経ち、対日感情は極めてよくなりました。やはり円の強い時代に、日本との貿易が盛んになったことが大きいと思います。

最近では中国がオーストラリアに入り込んでいると言われており、それは実感しています。日本人たちは警戒しても、オーストラリアはもともと移民の国なので受け入れるのが文化ですから、警戒していないのです。

とはいえ、まさに本の舞台となったダーウィン港が2015年に中国に約420億円で99年間賃借する契約を結んでしまったことは、さすがにオーストラリアでも大失敗だと考えています。現在、契約の見直しを進めていますが、はたしてどうなるのか……。

そんななか、私は2006年に体調を崩してしまいました。「死ぬかもしれない」となった時に、何か自分がオーストラリアに生きた証を残したいと思うようになりました。そこで、これまでに携わってきたオーストラリアの教育事情を書きました。

何とか生き延びたので、2015年にはオーストラリアで稲作を始めた侍、高須賀穣のことを書きました。

そして、今回6冊目。

日本で生まれ、日本で育ち、その後、オーストラリアに36年も住んでいる私に何ができるのか。やはり、その二つの国の間で起きたことを調べて書き記し、残していくことではないかと考えたのです。

そして、日本とオーストラリアとの絆がもっともっと強くなっていけば、うれしい限りです。

まつだいら みなオーストラリア在住。1987年4月、オーストラリアへ移住。教鞭を執る傍ら、ボランティア活動に没頭。2017年1月、『穣の一粒』が第32回愛媛出版文化省奨励賞を受賞。

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